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9 Janvier 2013

9.11テロ検証

『2011年9月11日  恐ろしい欺瞞』  チエリー・メッサン著  2002年3月、カルノ出版

11 septembre 2001 Effroyable Imposture, Thierry Meyssan, Edition Carnot, mars 2002.

                  

はじめに

2001年9月11日の事件を、何百万人もの人々がテレビの生中継で見た。攻撃の規模の大きさに驚き、理由なき暴力にショックを受け、視聴者も解説者も呆然とした。アメリカ政府の態度に関する情報はなく、目を引く暴力を写した映像だけがあった。テレビ局は世界貿易センタ-のタワ-に飛行機が突入する場面とタワ-が崩壊する場面を繰り返して放映した。驚きの効果を免れない生中継報道は、直ちに知られた事実の描写だけに情報を制限し、事件の全体的把握を妨げた。

テロに続く3日間、知られざる側面について非常に多くの情報が、公職者により新たにメディアに提供された。しかしそれらの情報は犠牲者や救助に関する絶え間ない速報の波にのまれてしまった。月日が経つうちに時折現れる情報もあった。文脈とは切り離された多くの逸話がそれらに含まれる。

何千人もの人々がこの9月11日に命を失い、そのことへの復讐としてアフガニスタンに対する戦争が始まった。ところが、この事件は謎に包まれたままだ。事件の話は奇妙な点、不確実な点、矛盾する点でいっぱいだ。これらの点に不安を感じながらも、世論は公式説で満足する。国の安全のため、米国当局は全てを明かすことができないのだろうと考える。

この公式説は批判分析に耐えることはできない。私達は公式説がモンタ-ジュにすぎないことを証明しよう。いくつかの場合においては、私達が集めた要素だけで真実を再構成することができる。別の場合においては、私達の問いに対する答えはまだ見つかっていない。しかし、だからといって当局の嘘を執拗に信じる必要はない。いずれにせよ、私達の書いたこの資料はすでに、アフガニスタンへのアメリカの報復と「悪の枢軸への戦争」の正当性を問題視することを可能にする。

私達の研究が決定的真実であるとは考えないで欲しい。その反対に、疑う精神を持って欲しい。自分自身の批判精神だけに頼って欲しい。読者が私達の疑いの正しさを確認し、自分自身の意見を持てるよう、テキストには注をつけ主要な情報源を記した。

アメリカが善と悪を切り離しているこの時期にあって、私達は、自由とは世界の単純化された見方を信じることではなく、様々な意見を理解し、意見を拡大し、そこに多くの細かな差異を加えることであるということを思い出してもらえるように努めたい。

第一部 血まみれの演出

第一章 ペンタゴンの幽霊飛行機

ペンタゴンへの攻撃を憶えているだろうか?事件はあまりにも重大であまりにも突然だったので、瞬間的に公式説の矛盾を見出すことは不可能だった。

2001年9月11日、ワシントンの時間で10時少し前に、国防省は短い声明を出している。

「国防省は9時38分に起きた攻撃に対して対応を続けています。犠牲者の数は現在のところ全く不明です。負傷した職員は近くの病院に運ばれました。ロナルド・S・ラムズフェルド国防長官はこの厚顔無恥な攻撃の間、犠牲者の家族への共感を表明しました。現在ペンタゴンの司令室で作戦の指揮を取っています。職員は全員建物から避難し、国防省と近隣の市町村の救急隊が消火と救護に取り掛かりました。大きな損害が推定されます。しかしペンタゴンは明日の朝再び門を開かなくてはならないでしょう。被害を受けた部分がどの部署に属しているのかを現在確認中です。」(この声明は国防省のサイトから除去された。イエール大学の古文書サイトで見られる。http://www.yale.edu/lawweb/avalon/sept_11/dod_brief03.htm)

最初に現場にかけつけたロイタ-通信社はペンタゴンがヘリコプタ-の爆発によって被害を受けたと報じた。民主党議員ポール・ベガラがAP通信に対して電話でこのニュ-スが正しいことを認めた。 数分後、国防省は情報を訂正し、「飛行機だった」と発表する。最初の証言を否定する複数の新たな証言が現れ、当局の説を裏付ける。上院議員ボブ・ネーの補佐官フレッド・ヘイがペンタゴン近くの高速道路を運転中、ボーイング機が落ちるのを見たと証言した。上院議員マ-ク・カ-クは、国防長官と一緒に朝食を取った後ペンタゴンの駐車場から出ようとした時、大きな飛行機が墜落したと証言した。国防長官のドナルド・ラムズフェルドみずからオフィスを離れ、犠牲者の救助のため現場に駆けつけた。

ア-リントンの消防士達が介入する。さらにFEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の4つの消防隊とレーガン空港の消防士が加わる。10時10分、被害を受けたペンタゴンの翼棟が崩壊する。

報道陣は救助活動の邪魔にならないよう現場から遠ざけられ、にわか仕立ての野戦病院に並べられた最初の「ボディバッグ」(遺体袋)を撮影するだけで我慢した。しかしAP通信は住民の撮った消防士到着の写真を手に入れることに成功している。

混乱の中、数時間経った後で初めて、最高司令官リチャ-ド・マイヤ-ズが「“自殺飛行機”はボーイング757-200機でダラス-ロサンゼルス間を結ぶアメリカン航空の77便であり8時55分以来消息不明だった」と述べる。

メディアはそれを聞いて早急に、死亡者の数が800人にのぼると報じる。実際の死亡者数はこれより4倍少なく、その数字はすでに分かっていたにも関わらず、この空想上の数字を国防長官ドナルド・ラムズフェルドは翌日の記者会見で否定しないよう配慮した。

世界中の人々にとって、貿易センタ-ビルに対するテロの後、このニュ-スは新たなショックだった。「世界で最も強力な軍隊が自分達の本部を防衛できず多くの損失を被った。無敵と思われていたアメリカがその本土において脆弱だったのだ……」

一見、事実は疑いの余地がないように思われる。しかしながら、詳細を調べてみると、公式の説明は混乱し、互いに矛盾している。

FAA(連邦航空局)の航空管制官はクリスチャン・サイエンス・モニタ-の記者に対し、8時55分頃ボ-イング機が29000フィートまで低下し、命令に応答しなかったと説明した。トランスポンダ(応答装置)から音が聞こえなくなり、電気の故障だと思われた。その後、応答を全くしていなかった操縦士はラジオを時々つけて、操縦士を脅すアラビア語訛りの声を聞かせた。その後、飛行機はUタ-ンしてワシントンの方角へ向かい、消息を絶った。

地元の航空管制官は手続きに従い、FAA本部にハイジャックを知らせた。アメリカの大部分の責任者は会議のためカナダに発っており、不在だった。当日、混乱状態の中でFAAの臨時責任者はこの通報をニュ-ヨ-クの第二のハイジャック機に関する報告の一つだと思った。30分が経過した後、彼らはやっとこれが第三のハイジャックであると理解し、軍当局に通報した。このため貴重な29分が失われた。

9月13日に上院軍事委員会の質問を受けて、統合参謀本部議長リチャ-ド・マイヤ-ズはボ-イング機を迎撃するためにいかなる措置が取られたかを答えることができなかった。議員達は迎撃措置が全く取られなかったと結論した。

公聴会の記録

カ-ル・レヴィン上院議員「国防省は2機の飛行機が貿易センタ-ビルに追突した後ペンタゴンが被害を受けるまでの間にFAAやFBIや他の機関から連絡を受けましたか?」

リチャ-ド・マイヤ-ズ将軍「私はその質問に対する答えを知りません。この公聴会の公表の際に付録として提出できます。」

レヴィン「ありがとうございました。国防省は特定の航空機に対する措置を取りましたか?あるいは措置を取るよう要請されましたか?」

マイヤ-ズ「私達は・・・」

レヴィン「あなたがたは対抗措置を取りましたか?例えば、ペンシルヴァニアに墜落した飛行機は撃墜されたという証言があります。この噂は存在し続けています。」

マイヤ-ズ「議長閣下。軍はいかなる航空機も撃墜しませんでした。脅威の性質が明確になった時、私達は別のハイジャック機がFAAシステムに入るのに備えて、戦闘機、AWACS、レ-ダ-機、輸送機を離陸させ軌道に乗せました。しかし軍事力を用いることはありませんでした。」

レヴィン「あなたが今描写した命令はペンタゴンが被害を受ける前に出されましたか?それとも後でしたか?あなたはそれを知っていますか?」

マイヤ-ズ「この命令は、私の知る限り、ペンタゴンが被害を受けた後に出されました。」

ビル・ネルソン上院議員「議長閣下、すみません。これに関して証言していただく必要があります。私はCNNの時間を引用します。9時03分ちょうどに、ユナイテッド航空の航空機が貿易センタ-ビルの南タワ-に墜落。9時43分、アメリカン航空77便がペンタゴンに墜落。10時10分にユナイテッド航空93便がペンシルヴァニアに墜落。第二のタワ-への攻撃からペンタゴンへの墜落まで40分も経過しています。ペンシルヴァニアでの墜落まで1時間7分経過しています。」

レヴィン「私達が知らないことは、ペンタゴンが情報を受け取った正確な時間です。ペンタゴンがFAA、FBIあるいは何らかの機関からハイジャック機など潜在的な危険に関する情報を受けていたならば。しかし、あなたは同じ事を繰り返して言うでしょう……」

マイヤ-ズ「それにはお答えできます。貿易センタ-ビルの最初の突撃の際、私達は危機対策チ-ムを動員しました。それは直ちになされました。私達は彼らを動員したのです。連邦局に問い合わせることから始めました。私が知らないのは、NORADがいつ戦闘機を展開したかです。その時間がいつだったかは知りません。」

レヴィン「私が質問した点についても同様にご存知ではない。すなわちFAAあるいはFBIが、他の航空機が飛行中にハイジャックされUタ-ンした、あるいはワシントンに向かっているという情報をあなたがたに与えたかどうか。少しでも通報があったかどうか。なぜなら、答えがNOであれば、不履行は明白です。」

マイヤ-ズ「その通りです。」

レヴィン「しかしいずれにせよ……重要なことですから、私達のためにその情報を探し出してください。」

マイヤ-ズ「それが行われた可能性はあります……思い出してください、私はその時ペンタゴンにいなかったのです。ですからその部分は混乱しています。その後、私達はNORADを介して、私達がおかしいと思った他の便に関してのFAAからの報告を定期的に受け取りました。また、私達はペンシルヴァニアに墜落した航空機についての情報を得ていました。この場合も、戦闘機を向かわせたかどうか私は知りません。私は・・・」

レヴィン「時間に関して正確な情報を見つけ出して頂ければ幸いです。私はあなたがそれを知らないことを知っていますから。」

マイヤ-ズ「私達はそれを見つけ出しましょう。」

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このやり取りを聞いて、議員達は迎撃措置が全く取られなかったと結論した。しかし、アメリカの軍隊がテロの間何も対抗措置を取らなかったことなど想像できるだろうか?

この公聴会が悲惨な効果を与えることを防げるため、NORAD(北アメリカ航空宇宙防衛司令部)は9月14日に声明を発表した。リチャ-ド・マイヤ-ズ将軍の忘却を埋め合わせ、ハイジャックに関する情報を得た時は9時24分になっていたと述べた。ヴァージニア州ラングリ-の基地から2機のF16戦闘機へボーイング迎撃命令を出したという。しかしアメリカ空軍はボ-イング機がどこを飛んでいるか分からず、再びニュ-ヨ-クでテロを犯すと思ったらしく戦闘機を北へ送った。セントアンドリュ-ス大統領基地から離陸した軍の輸送機がたまたまボ-イング機とすれ違い、認識したという。しかし手遅れだった。

NORADの説が統合参謀本部議長の説よりも尊敬に値するかどうかは怪しい。米軍のレ-ダ-システムが数十キロ以内を飛ぶボ-イング機の場所を突き止められないとは信じられない。また大きな旅客機が、これを追跡する強力なF16を引き離すということも信じられない。

ボ-イング機がこの最初の障害を越えたと仮定しても、ペンタゴンに近づいたところで撃墜されるべきだ。国防省を防衛する警備システムは当然ながら軍機密である。ホワイトハウスのそれと同様だ。1994年に起きた一連の小事件(ホワイトハウスの芝生にセスナ150が着陸した事件など)の後に完全に改変されたということくらいしか私達は知らない。また、対空システムはセントアンドリュ-スの大統領基地から制御されていることも私達は知っている。二基の戦闘機がここで常に待機している。空軍の113th Fighter Wingと海軍の321th Fighter Attackである。F16、F/A-18も備えており、ボーイング機を接近させることは決してなかったはずだ。

しかし、ペンタゴンのスポ-クスマン、ヴィック・ワルジンスキ大佐が述べたように、「我々はこの飛行機が我々のほうへ来ると意識していなかった。火曜日(9月11日)より前にこのような事を誰かが予想できたとは思えない」というわけだ。

追跡機を引き離し、いかなる損傷も受けずに最も精密な対空防衛を乗り越え、ボ-イング機はペンタゴンの上でその飛行を終えた。

ボ-イング757-200は239人の乗客を運ぶことができる貨物輸送機だ。長さ47,32メ-トル、翼を広げた長さは38,05メ-トル。満席の場合115トンにもなるこの航空機はそれでも時速900キロで飛ぶ。

ペンタゴンは世界で最も大きな行政用建物である。毎日2万3千人の人々がここで働く。独創的な形からペンタゴンの名前が付けられている。同心の5つのリング。各リングは5辺からなる。ホワイトハウスから遠くない場所、ポトマック川の反対側に建てられた。そのためワシントンではなく隣のヴァージニア州ア-リントンに位置する。

最も大きな損害を与えるためにはボ-イング機はペンタゴンの屋根に突き刺さるべきだった。結局の所、それが単純なやり方だ。建物の面積は29エ-カ-だから。しかし、テロリストは高さが24メ-トルしかない建物の正面を攻撃するほうを選んだ。

飛行機は突然、着陸するかのように地面に近づいた。地面と平行に飛びながらほぼ垂直に降下したが、ペンタゴンの駐車場に接した高速道路の照明灯にいかなる損害も与えることはなかった。

高度を低下すれば降着装置が自動的に出てくる。飛行機の高さは13メートルすなわち建物3階分の高さにも関わらず、ボーイング機は地上階と1階(日本式に言うと1階と2階)の間にぶつかった。降着装置は飛行機がペンタゴンに着陸する前にもぎとられていなければならなかっただろう。そしてこれらのことが、見事な芝生も壁も駐車場もヘリポ-トも傷めることなく行われたのだ。あの場所に事実、小型ヘリの着陸場があるのだ。

100トンほどの重量にも関わらず、また時速400-700キロという速度にも関わらず、飛行機が破壊したのは建物の第一のリングだけだ。下の写真で明確に見て取れる。

衝撃はペンタゴン全体で感じられた。飛行機の翼に保管されていた燃料が燃え上がり火災は建物全体に広がった。125人が死亡した。さらにボ-イング機に乗っていた64人も死亡者に加えねばならない。

偶然(?)にも、飛行機が激突したのはペンタゴンの修理中の部分だった。海軍の司令センタ-をそこに設置する工事が終わりかけていた。多くのオフィスが空だった。設置担当の民間の職員だけしかいないオフィスもあった。そのため、犠牲者の大多数は民間の職員で、死亡した軍人は1人の将軍だけだった。

30分後、建物の上階が崩れ落ちた。

これらの最初の要素は真実味がない。公式説の残りの部分はほぼ不可能である。

飛行機の形を衛星写真に重ねると、ボ-イング機の鼻だけが建物に入ったことがわかる。機体と翼は外側に残される。

飛行機は建物正面を打つことなく、そこでぴたっと止まったかのようだ。ボーイング機の鼻の残した跡以外は、衝撃の痕跡は全く見られない。

ゆえに、私達は芝生に翼や機体を見出すはずだ。

飛行機の鼻が急速に溶ける合金で作られていたとしても、また燃料を積んでいた翼が燃えるとしても、ボ-イング機の機体は自動車はトラックの車体に比較できる材料で作られている。火災の後、必然的に黒こげの残存物が残るはずだ。AP通信の写真を見れば、飛行機が存在しないことが明らかに見て取れる。

しかも、この写真は早い時間に撮られたものだ。消防車は到着しているが、消防士はまだ展開されていない。上階はまだ崩れ落ちていない。

9月12日の記者会見でア-リントンの消防隊長エド・プラウガ-は彼の部下達がペンタゴンの消火活動を行ったが墜落現場からは遠ざけられていたと述べた。FEMAの特別救助隊(Urban Search and Rescue)だけが飛行機の近くに介入したという。

記者会見でのやりとり

記者の1人「飛行機のどの部分が残っていますか?」

プラウガー「まず第一に、飛行機の問題ですが、飛行機の断片がいくつかあります。先程お話しした火災活動の間、私達はそれを見ることができました。でも大きな断片ではなかったです。言葉を変えれば、機体の断片など、そのようなものはなかったです」

(……)

記者の1人「飛行機の小断片、微細断片があちこちに--高速道路にも--散らばっていました。衝突の際、燃料などの理由で飛行機が爆発した、文字通り爆発したと言えるでしょうか?」

プラウガ―「私はその点について語ることを望みません。飛行機が接近中にどうなったかについては多くの目撃者がおり、私よりもその人々に質問するべきでしょう。つまり、私達は知りません。私は知りません。」

(……)

記者の1人「飛行機の燃料はどこにありますか?」

プラウガ-「飛行機の鼻と思われるものがあった場所に液体がたまっていました。」

こうしたわけで、複数の公職者—議会議員や軍人--が飛行機の墜落を見たと主張するにも関わらず、飛行機の断片を見た者は1人もいない。降着装置さえも。特定不可能な金属片だけだ。ペンタゴンの監視カメラに関しては、どの角度からも、どの瞬間も、ボ-イング機を写したカメラは1つもない。

公式説をまとめてみよう。ハイジャクされたボ-イング機が追跡するF16戦闘機を引き離し、ワシントンの対空防衛システムの裏をかき、地上に平行に飛びながらペンタゴンの駐車場に垂直に着陸した。飛行機は地上階の正面部分にぶつかった。飛行機は建物に鼻だけを差込み、翼が入る直前に止まった。機体は直ちに分解した。翼に積まれた燃料は建物の火災を引き起こす時間だけ燃え、その後、溜った液体に変化し飛行機の鼻の場所まで移動した。

“目撃者”である公職者や議会議員の高い地位には敬意を払わねばならないとしても、このような話を信じることは不可能だ。目撃者の身分は彼らの証言を裏付けるどころか、アメリカ軍が真実を歪曲するために用いた手段の規模の大きさを強調するだけだ。

この突飛な話は、嘘が嘘を呼ぶかたちで、少しずつ作られていった。ペンタゴンの最初の声明を見れば、ボ-イング機など話題になっていなかったことが分かる。「自爆テロ機」の説は30分後に初めて現れたのだ。統合参謀本部議長の公聴会では幽霊飛行機を迎撃しようとした戦闘機については問題になっていない。NORADがF16が空を彷徨したという話を作り出したのは2日後のことだ。

公式説はプロパガンダにすぎない。しかし、123人の人間がペンタゴンで死亡し、64人の乗員・乗客を乗せた飛行機が消えた。ペンタゴンを襲った爆発の原因は何か?アメリカン航空77便はどうなったのか?乗客は死亡したのか?もしそうならば、誰が殺したのか?何のために?もし彼らが死んでいないなら、今どこにいるのか?アメリカ政府はこれに答える義務がある。

何よりも、公式説が何を隠そうとしているのかと自問してみよう。コソボ戦争におけるNATO軍最高司令官だったウェスリ-・クラ-ク将軍は、テロの翌日、CNNの質問を受けてこう述べた。「私達は少し前からある複数の集団が(ペンタゴン攻撃を)計画していることを知っていました。当然ながら(行動できるほど)十分な情報は得ていませんでした。」

この謎めいた発言で、クラ-クが指しているのは外国人の攻撃者ではない。彼はペンタゴンに対して極右民兵が述べた脅し文句について述べている。ここに、アメリカの指導階級を分裂させる秘かな衝突を垣間見ることができる。

CNNは9月15日にホスニ・ムバラクに質問した。当時エジプト大統領は私達と同じ情報を持っていなかった。彼はテロの詳細な分析から分かる事実を知らなかった。そのかわりムバラクはテロの準備に関する内密の情報を持っており、何週間も前に米政府に伝えていた。

インタビュ-

ホスニ・ムバラク大統領「どの国の情報部も彼らが乗客の乗った商業用の航空機を使いペンタゴンに衝突させるとは予測できませんでした。これをやった人々はこの地域の上空を長い間飛ばねばならなかったでしょう。ペンタゴンは高い建物ではありません。ペンタゴンにこのようにまっすぐにぶつかるには、飛行士はこの地帯をよく飛び、大きな商業用飛行機で低飛行してペンタゴンに衝突する前に出会う障害を知る必要があったはずです。誰かがこれをよく研究し、この地帯を長いこと飛んだのでしょう」

CNN「内部の作戦だった可能性はあるでしょうか?誰がこのテロの裏にいると思いますか?」

ムバラク大統領「正直に言って、早急に結論は出したくありません。アメリカでは、誰かが逮捕されれば噂が流れ、あなた方はこう言うでしょう。エジプト人じゃなくて、サウジ人だ、首長国の人間だと。これは皆、アラブ人です。人々はアラブ人だと思うでしょう。待つべきです。オクラホマシティを思い出してください。アラブ人だという噂がすぐ流れたけれど、アラブ人ではありませんでした。調査の結果がどうなるか、待たせてください。

このような犯罪がアメリカで成されたからです。フロリダで訓練を受けたパイロットにとってこれは容易なことではありません。飛行士の資格を取ろうと多くの人々が訓練しますが、だからと言って彼らがあのようなテロを行うことが可能なわけではありません。私は元飛行士だった立場から話しています。私は飛行についてよく知っています。大きな飛行機を操縦したことも、戦闘機を操縦したこともあります。容易なことではありません。ですから、早く結論を出してはならないと思うのです。」

ブッシュ政権が内部の問題を隠すためにペンタゴンへのテロを捏造したとすれば、貿易センタ-ビルのテロのいくつかの要素も彼らは隠したのではないか?

第二章 地上の共犯者

ニュ-ヨ-クの同時多発テロのニュ-スを思い出そう。2001年9月11日火曜日、CNNのニュ-スはプログラムを変更して旅客機が貿易センタ-ビル(WTC)の北タワ-に衝突したと報じた。災害の映像がないのでCNNはマンハッタンの屋根に固定したカメラからの映像を流し続けた。タワ-から出る煙がのぼる様子が見えた。

最初は、派手な飛行機事故だと思われた。アメリカの航空会社は破産寸前で修理を怠っている。航空管制官の情報は疑わしい。全体的な交通の乱れにより、住宅地の上で飛行機が無秩序に飛ぶことになる。起きるべきことが起きたのだ、と。

しかし、CNNがすぐに喚起したように、この“クラッシュ”が事故ではない可能性も除外できない。その場合はテロ行為であろう。1993年2月26日にも、爆弾が仕掛けられたトラックが貿易センタ-ビルの地下2階で爆発し、6人が死亡し多くの負傷者が出た。このテロはイスラム主義組織の犯罪と見なされた。ニュ-ヨ-クのシェイク・オマル・アブデル・ラフマンに率いられた組織だ。

CNNの解説者によれば、この墜落事件がテロならば、その犯人はおそらくもう一人のイスラム主義者、サウジアラビア人の元億万長者のウサマ・ビンラディンに違いない。アフガニスタンに亡命したこの資本家は、1996年8月23日のファトワー(勧告)でアメリカとイスラエルに対する聖戦を呼びかけていた。1998年8月7日にケニアのナイロビとタンザニアのダルエスサラムで起きた米大使館に対するテロも彼の犯罪だと思われている。数年の間に彼はアメリカの公敵ナンバ-ワンになった。FBIは彼の首に5百万ドルを懸けた。国連安全保障理事会はタリバン政権にこの男の引き渡しを求めた。2001年2月5日以来、アメリカは彼に対する欠席裁判を行っている。

アメリカのテレビチャンネルは次々にニュ-ヨ-クからの実況放送を始める。9時03分に第二の旅客機がWTCの南タワ-に衝突する。この“クラッシュ”は多くのテレビチャンネルが燃える北タワ-の映像を放映していた時に起こった。そのために、様々な角度から撮られ、何百万人もの視聴者が生中継でこれを体験する。

アメリカは本土でのテロ活動に直面しなくてはならない!自動車爆弾によるテロを恐れ、ニュ-ヨ-ク港当局はマンハッタン地区の橋とトンネルの交通を遮断する。

9時40分、ニュ-ヨ-ク警察は人々に、別の飛行機が他のタワ-を攻撃する可能性があると知らせる。10時00分、ペンタゴン攻撃が報じられると同時に、テレビ画面ではWTCの南タワ-が崩壊する。10時29分、今度は北タワ-が崩壊。マンハッタンは埃の雲に覆われる。死者が数万人にのぼる可能性があると報じられる。飛行機の燃焼があまりにも高熱を発するため、ビルの鋼鉄構造はこれに耐えられなかったのだ、と分析される。

ニュ-ヨ-ク州知事ジョ-ジ・パタキは州の全ての役所を閉鎖し、州兵動員を要請する。「タワ-には私の友人達がいます。彼らのこと、彼らの家族のことを思います。この悲劇で被害を受けた全ての人々を支えるために努力します」とパタキは述べた。

11時02分、ニュ-ヨ-ク市長ルドルフ・ジュリア-ニはNew York Oneの放送を通じ、電話でニュ-ヨ-ク市民に呼びかける。「いまマンハッタンにいない方々は自宅やオフィスを離れないで下さい。ビジネスセンタ-にいる方々は、救助作業の邪魔にならないよう、攻撃の場所を離れ、北へ向かって歩いてください。私達はできるだけ多くの人を救助しなくてはなりません。」

これを聞き、数万人の群集がマンハッタンを逃げるため橋を渡った。自動車の交通はすでに遮断されていた。

午後5時20分、今度はWTCの第七ビルが、飛行機の攻撃を受けなかったにも関わらず崩壊する。犠牲者は出なかった。ニュ-ヨ-クの緊急対策本部は、第七ビルがツインタワ-の崩壊によって破損を受けたのだろうと考える。ドミノ効果によって近くのビルが次々に倒れる可能性があるとも言われた。それでニュ-ヨ-ク市は3万人分の遺体袋を注文した。

当日の午後と翌日以降の数日間、攻撃のシナリオが再構成される。「ビンラディンの組織に属するイスラム主義者が5人ずつチ-ムを組み、カッタ-ナイフで武装して複数の旅客機をハイジャックした。狂信的な彼らは自分を犠牲にしてタワ-に飛行機を墜落させた」というシナリオだ。

一見、事実は疑いの余地がないように思われる。しかしながら、詳細を調べれば調べるほど、矛盾が明らかになる。

FBIは2つの飛行機がボ-イング767であり、第一の飛行機はアメリカン航空に属し(11便、ボストン-ロサンゼルス)、第二の飛行機はユナイテッド航空に属する(175便、ボストン-ロサンゼルス)ことを認める。航空会社はそれぞれ、これらの飛行機を失ったことを認める。

テロが行われている間に携帯電話で近親者に電話をした乗員のお陰で、ハイジャック犯が乗客を機内後方へ集めたことが知られる。コックピットを孤立させるための古典的な手段だ。乗客の数が少なかったのでハイジャック犯の行為は容易になる。239人乗りの飛行機だったが、11便には91人、175便には56人しか乗っていなかった。

乗員の電話から得られた情報によれば、ハイジャック犯は冷兵器しか持っていなかった。アメリカの領空は閉鎖され、飛行中の全ての飛行機は地上に着陸してFBIの捜査を受けた。二つの飛行機、43便(ニュ-ア-ク-サンフランシスコ)と1729便(ニュ-ア-ク-サンフランシスコ)で同じようなカッタ-ナイフが座席の下に隠されているのが見つかった。捜査官はこれを拡大適用して、全てのハイジャック犯がこの種のカッタ-ナイフを用いていたに違いないと結論した。その後、CIAはウサマ・ビンラディンが滞在していたアフガニスタンの家にカッタ-ナイフがいくつも入った袋を発見した。イスラム主義者がその使用法について養成を受けていた証拠だとされた。

しかし、テロの首謀者が作戦の失敗の危険を冒してまで部下に火器を供給することを怠ったとは考えにくい。カッタ-ナイフよりも合成ピストルのほうが空港の検査を簡単にパスすることができるだけに、なおさらそう言える。

私達がなぜそのような問いを発するかというと、集合的な想像力において、アラブ人すなわちイスラム主義者が犠牲者の首を切って殺すことが知られているからだ。カッターナイフはハイジャック犯が全員アラブ人だったと推論することを可能にする。しかし、そのことは証明されていない。

ニュ-ヨ-クに近づく前に、飛行機は大きく高度を下げたという。ハイジャック犯がタワ-を上からではなく正面から見るためだ。空から見た町は地図に似ており、目印が見分けられない。タワ-を攻撃するには前もって非常に低い高度へ下がらねばならない。

飛行士はまた、高度だけでなく側面も調整する必要がある。タワ-の幅は63m70cm、ボーイング機の翼を広げた幅は47m60cm。ビデオで見ると飛行機は標的の中央に衝突している。55m65cm移動するだけで飛行機は攻撃に失敗する。時速700キロで飛行機はこの距離を0.03秒で通過する。この飛行機が操縦しにくいことを考えると、ベテランのパイロットにとってこれは力技である。素人にとってはなおさらだ。

最初の飛行機は正面から来た。風向きと同じ方向へ飛んだから、安定化は容易だった。しかし、第二の飛行機は回転という複雑な操作を行わねばならなかった。風に逆らってこれを行うのは特に難しい。それでもタワ-の高い場所に、中央に衝突した。

私達が会ったプロの飛行士は、このような操縦が可能な人間はほとんどいないと断言し、アマチュアの飛行士にはこれは不可能だと述べた。しかし、目標に間違いなく達する方法が1つある。標識を利用するのだ。標的から発せられる信号が飛行機を引き付け飛行機は自動的に誘導される。

WTCに標識が一つ存在していたことが、その信号を記録したアマチュアラジオによって証明されている。標識が検知された理由は、タワ-の上のテレビアンテナからの電波と干渉し合ったからだ。

標識が発見され、破壊されることを恐れて、犯人は作戦実行の開始まぎわに信号を起動させた可能性がある。ハイジャック犯が標識を二つ用いた可能性もある。一つだけなら、標的のビルが隣同士だとはいえ、作戦の成功は難しいだろう。

いずれにせよ、地上に共犯者がいたのは確かだ。共犯者がいれば、ハイジャック犯を沢山飛行機に乗せる必要はない。飛行機を自動操縦させるには少数の人間で十分だ。そもそも、ハイジャック犯を乗せる必要さえ全くない。人質を取る必要がないのだから。

離陸前に飛行機のコンピュ-タ-をハイジャックし飛行をコントロ-ルすることが可能だ。国防省が完成させたグロ-バル・ホ-クスの技術を使えばそれができる。ボ-イング機は操縦士なしのドロ-ン(無人航空機)と同様、遠隔操作される。

次に、ツインタワーは垂直に崩壊する。FEMAは調査をASCE(米国土木学会)に依頼する。予備報告では、飛行機の燃料の燃焼が高温を発して中心の鋼鉄構造を弱めたとされる。この説はニュ-ヨ-クの消防士協会から強く否定されている。専門雑誌Fire Engineeringは計算を論拠にして、この構造が長時間の火災に耐えられることを主張している。消防士はビルの基部で複数の爆発音を聞いたと断言し、独立した調査を求めている。彼らはビルにあった物質は何だったのだろうかと自問し、あの爆発は犯罪であり地上に共犯がいた証拠ではないかと考えている。ニュ-メキシコ工科大学の著名な専門家ヴァン・ロメロは、この崩壊が爆発物によってのみ可能であると述べた。彼はその後、公的圧力を受け、前言を取り消した。

いずれにせよ、第三の建物すなわち第七ビルの崩壊は、飛行機の“クラッシュ”からは説明できない。ASCEは土台が不安定になったという仮定を否定した。第七ビルは傾くことなく、垂直に崩壊した。もはや、適切な質問は「第七ビルはダイナマイトで破壊されたのか?」ではなく、「他にいかなる仮定があり得るだろうか?」であろう。

ここでニュ-ヨ-ク・タイムズのスク-プが介入する。貿易センタ-ビルは民間の標的と思われていたが、秘密の軍事的標的を隠していた。数千人の人々は人間の盾に使われて死亡したかもしれない。第七ビル(と他の建物、また建物の地下)はCIAの基地を隠していた(その基地は第七ビルの9階と10階にあり、New York Electric Crime Task Forceという秘密情報局帰属の機関を隠れ蓑にしていたという情報もある。同じ情報筋の提供した南タワ-崩壊直後の第七ビルの写真では、9階が火事になっている様子が明確に見て取れる)。1950年代にこの基地は国連の外国代表団の諜報に用いられたが、ビル・クリントン政権下でマンハッタンの経済諜報へ非合法的に活動を拡大した。アメリカの情報機関の予算の大部分が対ソ連諜報から経済戦争へ移された。ニュ-ヨ-クのCIA基地は世界一の経済情報センタ-になっていた。情報局のこの方針変更は、CIAの伝統的分野の人々と米軍統合参謀本部議長から激しい抗議を受けていた。

今から思えば、1993年2月26日のWTCに対するテロ(死者6人、負傷者約千人)の標的は、当時はまだ規模がこれほど大きくはなかったCIAの秘密基地ではなかっただろうかと疑うことができる。

最初の“クラッシュ”の時刻には3万から4万人の人々がツインタワ-で働いていた。各タワ-の階数は110で、1つの階に平均136人がいたはずだ。最初のボ-イング機は80階と85階の間に衝突した。この部分の人々はすぐに死亡した(衝撃や火事により)。これより上の階の人々は、火事が上に広がるため、罠にかかった形になった。炎の中で死ぬよりも宙に身を投げるほうを選んだ人々もいる。最終的に建物は崩壊した。上の30階分の人々は死亡した。計算すると少なくとも4080人が死亡したはずだ。

しかし、2002年2月9日の公式発表では、ニュ-ヨ-クの2つのテロで死亡した人の数は合計2883人(ボーイング機の乗員・乗客、警察官に消防士、タワ-利用者を含め)である。当初の推測数と比べてはるかに少ない。この事実は、このテロが最大限に人的損失を出すことが目的ではなかったと思わせる。その逆である。多くの人々が(少なくとも上の階で働く人々が)テロの時刻にオフィスにいないように前もって介入が行われたことは確かである。

イスラエルの日刊紙ハレツは、電子メ-ルの会社オディゴ(Odigo)が匿名のテロを知らせる警告メ-ルを事件の2時間前に受け取っていたことを暴露した。会社の社長ミシャ・マコヴァ-(Micha Macover)がその事実を認めた(2001年9月26日のハレツ紙)。警告は様々な形で北タワ-の人々に送られた可能性がある。全ての人が本気にしたわけではないだろうが。

この図式は1995年4月19日のオクラホマシティのテロと似ている。その日、アルフレッド・P・マラ-連邦ビルで働く公務員の大部分が半日の休暇を与えられていたため、自動車爆弾の爆発による死亡者は168人にとどまった。このテロはFBIが潜入した極右の組織に属する軍人達によって実行されたことが現在分かっている(A Force upon the Plain : the American Militia Mouvement and the Politics of Hate, Kenneth Stern, Simon & Schuster edition 1996およびThe Secret Life of Bill Clinton : the Unreported Stories, Ambrose Evans-Pritchard, Regnery Publishing 1997の第一部参照)。

オクラホマシティではFBIがテロの情報を得ていながら実行させ、その規模を制限した。

次にジョ-ジ・W・ブッシュ大統領の奇妙な告白を聞いてみよう。12月4日、オルランドの集会での発言である。

質問「私が第一に申し上げたいのは、大統領閣下が我が国のためにどれほど多くのことをなされたか、大統領閣下ご自身もご想像できないほどだということです。第二に、テロ攻撃を知った時どうお感じになりましたか?」

ジョ-ジ・W・ブッシュ大統領「ありがとう。ジョ-ダン。あなたは信じないでしょう。テロのニュ-スを知って私がいかなる状態に陥ったかを。私はフロリダにいました。そして私の秘書官アンディ・カ-ドが……実際、私は教室の中にいました。読書の効果的な学び方について話すためです。私が教室の外にいて、教室に入る瞬間を待っていた時、飛行機がタワ-にぶつかるのを見ました……テレビがついていたのです。私自身飛行士だったので、私は言いました。これはひどい飛行士だな、と。しかし、私は(教室に)連れて行かれ、これについて考える暇はほとんどありませんでした。それで私は座っていて、いまあそこにいるアンディ・カ-ドが--私の秘書官ですが--彼が入って来て、私に「第二の飛行機がタワ-に衝突しました。アメリカは攻撃を受けました」と言いました。実際、ジョーダン、最初は何を考えたらいいかわかりませんでした。私はアメリカが攻撃されるなんて考えられないそんな時代に育ちました。父も母も私と同じように考えていたでしょう。それで、あの短い時間の間、私は、攻撃されるとはどのような意味を持つかを強く考えました。私達が攻撃されたことを示す全ての事実を手にした場合、その時は、アメリカ攻撃の代償は地獄の代償となるだろうことを私は知っていました。」(拍手)

つまり、大統領自身の宣言によれば、大統領は第二の“クラッシュ”の起こる前に第一の“クラッシュ”の映像を見た。この映像はノデ兄弟(Jules とGédéon Naudet)が偶然撮影したあの映像であるはずはない。兄弟は一日中WTCで撮影を続け、彼らのビデオがガンマ写真通信社から放映されたのは13時間後だ。ゆえに、大統領が見たのは秘密の映像だ。大統領の訪問のために小学校に設置され、厳重に警備されたコミュニケ-ション・ル-ムで直ちに放映されたものだ。しかし、情報局が第一のテロを撮影できたのは前もって情報を得ていたからだ。その場合、なぜ彼らは自国民を救うために何もしなかったのか?

これほどの作戦がアフガニスタンの洞窟の中で計画・指揮され、数人のイスラム主義者によって実行されるということが可能だろうか?

第三章 ホワイトハウスにスパイがいた

あの恐ろしい1日についての公式説に戻ろう。ニュ-ヨ-クで起きた2つのテロへ応じるため、FBI長官ロバ-ト・ミュラ-3世は米国政府国内テロ作戦構想計画(CONPLAN : United States Government Interagency Domestic Terrorism Concept Of Operation Plan)を発動する。政府の全ての機関は災害の情報を与えられ、FBIの戦略情報作戦センタ-(SIOC : Strategic Information and Operations Center)と連邦緊急事態管理庁(FEMA)の災害対策グル-プ(CDRG)の指示に従うよう要請される。公衆の集まる主要な場所はテロの舞台になりうるため、人々を退去させ閉鎖される。

突然、10時頃、シ-クレットサ-ビス(高位の人物の警護担当)が新たなタイプの警報を出した。ホワイトハウスとエア・フォース・ワンが危険に曝されているというのだ。副大統領チェイニ-はホワイトハウスの西棟の地下にある司令室、大統領緊急作戦センタ-(PEOC : Presidential Emergency Operations Center)に連れて行かれる。政府継続(COG : Continuity of Government)が発動される。アメリカの主要な政治指導者、政府や議会のメンバ-は皆安全な場所に避難させられる。海軍のヘリコプタ-が彼らを2つの巨大な対核シェルタ-へ運んだ。ヴァージニア州マウントウェザ-にあるHigh Point Special Facilityと、キャンプテ-ビッド近くのラヴェンロックマウンテンにあるAlternate Joint Communication Center (R地点と呼ばれる) である。これらはまさに地下都市である。冷戦の名残りであり、数千人の人々を収容することができる。

一方、ジョ-ジ・W・ブッシュはワシントンに向かっていたが、針路を変更する。大統領機エア・フォース・ワンはまず最初にルイジアナ州バ-クスデイルの基地に向かい、そのあとネブラスカのオファット基地に向かう。オファット基地はアメリカ戦略軍(US Strategic Command)の拠点であり、核抑止戦力の中心だ。この二つの基地を移動する間、戦闘機に護衛された大統領機は高度を下げジクザク飛行をした。基地内では、大統領は狙撃者の射撃を避けるため、装甲車に乗ってタ-マックを横切る。

高位の人物のためのこの警護体制は午後6時、ジョージ・W・ブッシュがワシントンに戻るためエア・フォ-ス・ワンに再び乗った時に始めて終った。

NBC のMeet the Pressという番組でティム・ラサ-トに対し、ディック・チェイニ-副大統領はシ-クレットサ-ビスの警報と危機の性質を描写した。

チェイニ-副大統領「私はそこに数分留まり、テレビで状況を見守っていました。なすべきことを決定するため、準備を整えている最中でした。その時シ-クレットサ-ビスの警備員が入って来て--このような事態では、狼狽したりしません。すみません、閣下などと言って礼儀正しくついて来るように言ったりしません。彼らは単に室内に入り、閣下、直ちに行かねばなりませんと言って私をつかまえて・・・」

ティム・ラサ-ト「文字通りつかまえて運んで行った?」

チェイニ-副大統領「そういうこと。時々私の足が地面に触れることもあったけれど。しかし彼らは私より背が高いから、私を持ち上げて急いで運んで行きました。私達は廊下を一つ越えて階段を下り、扉をいくつも通ってさらに一層深く、ホワイトハウスの地下の避難所まで下りました。ここは実際は二つの側から閉ざされた回廊です。その場所で彼らは私に、飛行機が一機ホワイトハウスに向かっているという情報を得たと言ったのです」

ティム・ラサ-ト「ダラスを離陸した77便のことですね」

チェイニ-副大統領「そう。この飛行機が77便だと分かりました。ダラスを離陸して西のオハイオ州の方角へ向かいましたが、テロリストの手に落ちました。彼らはトランスポンダを切りました。そのためにオハイオに飛行機が落ちたという情報が最初入って来ましたが、それは正しくなかったのです。次に奴らはUタ-ンしてワシントンの方角に針路を変えました。私達の情報によれば、ホワイトハウスに針路を向けました」

ティム・ラサ-ト「飛行機はホワイトハウスから見えるほど近くまで来ていたのですか?」

チェイニ-副大統領「いいえ。見えるほどではないですが、こっちにまっすぐ向かっていたのです。シ-クレットサ-ビスはFAAと連絡を結び、WTC攻撃以来ずっと連絡を取り続けていました」

ティム・ラサ-ト「彼らはレ-ダ-で飛行機を追っていたのですね」

チェイニ-副大統領「そして、飛行機が飛行禁止地帯に入り、ホワイトハウスに向かっているようだったので、私はつかまえられ、地下室に入れられたのです。ご存知のとおり、飛行機はホワイトハウスには衝突しませんでした。飛行機は針路を変えたのです。飛行機は一周してペンタゴンに戻り、そこに墜落したのだと思います。レ-ダ-の分析からそれが示されます。」

(……)

チェイニ-副大統領「大統領は大統領機エア・フォ-ス・ワンに乗っていました。私達はエア・フォ-ス・ワンに関する脅迫を受けました。シ-クレットサ-ビスが私達にそれを伝えました。」

ティム・ラサ-ト「エア・フォース・ワンに対する信憑性のある脅迫を受けた。それは確かですか?」

チェイニ-副大統領「確かです。もちろん冗談かもしれませんが、あの時の状況ではそれを確かめる手段はありませんでした。脅迫は十分信憑性のあるものだったと思います。シ-クレットサ-ビスが伝えるほどですから。私は大統領と話してから地下の避難所を出ました。私は彼にすぐにはここに戻らないようにと熱心に頼みました。そのあとPEOC、大統領危機作戦センタ-に降りノーマン・ミネタに尋ねました(……)」

副大統領の証言によれば、彼は自分の警護員から突然自分の身に危険が迫っていると知らされ、無理やりホワイトハウスの地下壕に避難させられた。77便と分かったボ-イング機がワシントンの上を旋回した。ホワイトハウスの標的を見出せず、この飛行機はペンタゴンに墜落した。政府と議会のメンバ-を避難させている間、シ-クレットサ-ビスはエア・フォース・ワンに対する脅迫についての情報を得る。ハイジャックされた別の飛行機が大統領機に激突する危険があると。

しかし、公式説はまたしても分析に耐えることができない。

副大統領の証言は危険が何であったかを特定する目的を持つ。「自殺飛行機がホワイトハウスとエア・フォ-ス・ワンに向かって飛んでいた」と特定するためだ。彼は私達が上で述べた周知の嘘を繰り返している。「77便がペンタゴンに墜落した」という嘘だ。彼は自殺飛行機が標的を求めてワシントン上空を旋回したと想像して嘘を強調している。しかし、シ-クレットサ-ビスが対空防衛を起動させる代わりに副大統領を防空壕に避難させることしか考えなかったとは認めがたい。さらに面白いのは、チェイニ-が新たな旅客機をでっちあげ、これが無力なアメリカ空軍の見守るなか、ウエスタンの騎手さながら空中でエア・フォ-ス・ワンに衝突するシ-ンを想像したことだ。

この物語は行動を説明することはできない。危険が自殺飛行機に限られているならば、なぜ大統領を軍の戦略基地のタ-ナックにおいてさえ狙撃者の発砲から守る必要があるだろうか?イスラム主義者がこれほど固く防衛された場所で狙撃位置につくことが可能だろうか?

ディック・チェイニ-の証言は何よりも、ホワイトハウスの代弁者アリ・フレッシャ-とホワイトハウスの秘書カール・ロ-ヴの告白を忘れさせる目的がある(The Options Nicholas Lemann,The New Yorker2001年9月25日 )。彼らの情報は内部犯罪の可能性を示唆する。しかし戦争プロパガンダは外国の敵だけを見出すことを望む。

9月12日と13日の新聞は、大統領スポ-クスマンのアリ・フレッシャ-によればシ-クレットサ-ビスがホワイトハウスとエア・フォ-ス・ワンを破壊すると脅す攻撃者のメッセ-ジを受け取ったと報じた。驚くべきことにニュ-ヨ-クタイムズ紙によれば、攻撃者は認識・伝達用の暗証番号を用いて彼らの電話を信用させたという。さらに驚くべきことには、情報部の職員の証言を引用したWorld Net Dailyによれば、攻撃者達は麻薬取締局(DEA : Drug Enforcement Administration) 、アメリカ国家偵察局(NRO : National Reconnaissance Office) 、空軍情報・監視・偵察局(AFI : Air Force Intelligence) 、米軍情報局(AI : Army Intelligence)、 アメリカ海軍情報局(NI : Naval Intelligence)、アメリカ海兵隊情報局 (MCI :Marine Corps Intelligence)、国務省情報部、エネルギ-省情報部の暗号も持っていたという。これらの暗号はごく少数の責任者だけが持つことができる。複数の暗号を知ることは許されない。攻撃者がこの暗号を知っていると認めることはすなわち、これを知る手段が存在すると仮定するか、あるいは、これらの情報機関にスパイが入り込んだことを仮定することだ。技術的にはアメリカの情報部の暗号を再構成することは可能だ。暗号を作るのに使われたPromisというソフトを使えばよい。ところで、このソフトのアルゴリズムがFBIのロバ-ト・ハンセンに盗まれていたという。ハンセンは2001年2月にスパイ容疑で逮捕されている(Bin Laden’s Magic Carpet –Secret US Promius Software, Michael C. Ruppert, From the Wilderness 2001年11月20日参照)。元CIA長官ジェームズ・ウルジ-は暗号がスパイによって盗まれたと考える。サダム・フセインの反対派のロビイストであるウルジ-は、イラクの危険な情報局が暗号を盗んだと主張している。第三の仮定は、シ-クレットサ-ビスに何者かが潜入したか、シ-クレットサ-ビスが攻撃者の嘘を信じたというものだ。攻撃者は暗号を知ったことはないが、共犯のお陰でそう信じさせることに成功したのだ。

いずれにせよ、暗号の事件は、アメリカ国家機関の最も高いレベルに一人以上の裏切り者が存在するということを示す。大統領を殺すために米国空軍戦略基地内部にまで狙撃者を配置することができるのも彼らだ。彼らの罠から身を守るためにブッシュ大統領はバークスデイルとオファットのターマックで装甲車を使ったのだ。

この事件はまた、平行して交渉が行われたことを明らかにする。攻撃者がシ-クレットサービスと接触し、秘密番号を用いて電話の信憑性を示したとすれば、それは明確な目的を持つ。彼らのメッセ-ジは要求か最後通牒だった。ゆえに、一日の最後に危険が去ったことを認めれば、ブッシュ大統領は交渉して脅迫に屈したという結論だけに到達する。

ホワイトハウスとエア・フォ-ス・ワンの暗証・伝達番号を手にした攻撃者はアメリカ大統領の地位を奪取することができる。好きなように軍に司令を出し、核兵器を起動することもできる。ジョ-ジ・W・ブッシュが軍を統括し続けることができる唯一の手段は自分自身がオファットの戦略軍の拠点に赴き、そこから自分で命令や反対命令を出すことだ。そのために彼は自ら基地に向かった。燃料不足で直行は不可能だとわかった。低い高度で飛ぶのに慣れていないエア・フォ-ス・ワンは燃料を使い果たした。飛行中に補給すれば目立つだろう。大統領機はオファット基地の5つある予備基地のひとつ、バ-クスデイルに技術的な寄航をした。

暗証番号の事件は、公式説から失われた唯一の要素ではない。明確に確認された第二の事実もまた忘れられた。9月11日の9時42分にABCはホワイトハウス別館の旧行政府ビル(Old Executing Building) が火事になっている映像を生放送で放映した。テレビ局のカメラは固定され、建物から黒い煙が出る様子を見せるにとどまった。この災害の原因が何だったのか、その規模はどれほどだったかは、全く知られていない。誰も火事を自殺飛行機のせいにはしなかった。15分後にシ-クレットサ-ビスがディック・チェイニ-をオフィスから誘拐し、ホワイトハウスと別館からの職員の退去を命じた。空挺攻撃に反撃するためロケット弾で武装した狙撃兵が大統領官邸の周囲に配置された。要するに、後にチェイニ-副大統領が描写するのとは性質を異にする危険に備える必要があったのだ。

ここでブッシュ大統領の宣言を読み直してみよう。バ-クスデイルで録画されペンタゴンが午後1時04分に放映した。

「アメリカ国民の皆さんには安心して頂きたいと思います。連邦政府の全ての機関が、地方当局と共に人々の命を救い攻撃の犠牲になった人々を助けるために取り組んでいます。誰も見誤ってはいけません。アメリカはこの卑怯な行為の犯人を追跡し罰するでしょう。私は副大統領、国防長官、国家安全保障チ-ム。そして米政府とたえず連絡を取り合っています。私達はアメリカ国民を守るためにあらゆる安全措置を取りました。合衆国と外国にいる私達の軍隊のは最高の警戒態勢にあり、私達は国の機能を継続させるために必要な安全措置を取りました。私達は議会の指導者、世界の指導者と連絡を取り、アメリカとアメリカ人を守るようできるだけのことをすると伝えました。アメリカ国民の皆さん、同国人を救助するために努力した人々に対し、私と共に感謝し、犠牲者の方々と家族の方々に祈りの言葉を述べてください。私達の大国は試練を受けています。しかし見誤ってはなりません。私達はこの試練を乗り越えるということを世界に示すでしょう。皆さんに神のお加護があらんことを。」

大統領のこの宣言で驚かされることは、攻撃者が誰であるかを言うのを注意深く避けていることだ。「テロリズム」や「テロリスト」という言葉をもはや用いていない。古典的な軍事紛争の始まりとも理解できるし、あるいは別の事態であるとも理解できる。乗り越えられるであろう「試練」の語は、新たな災害を予告するように思われる。さらに驚かされることは、彼がワシントンに自分が不在であることを全く説明しなかったことだ。そのため、自国民がさらされ続けている危険から彼が逃げたような印象を与える。

ホワイトハウスのスポ-クスマン、アリ・フレッシャ-は大統領機の長い放浪の間、エア・フォ-ス・ワンの中で記者のインタビュ-に答えた。彼もブッシュ大統領と同様綿密に注意してテロリズムやテロリストという言葉を避けている。この文脈では政府継続の手続きの発動には二つの解釈が与えられるだろう。最も単純な説明は、旧行政府ビルに火事を起し大統領や情報機関の暗号を盗むことが可能な裏切り者の行為から大統領と政治責任者を守らねばならなかったという説明。

また、その反対にこうも考えられる。政府継続プランは指導者を裏切り者から守るためではなく、裏切り者によって指導者を孤立させるために実施されたのではないか。チェイニ-副大統領の証言は奇妙だ。シ-クレットサ-ビスの人間が彼をオフィスから誘拐し、彼の同意も得ずにホワイトハウスの防空壕に連れて行ったという。彼は政府や議会のメンバ-も同じ目にあったことを示唆している。国民が選出した人々を情報局が誘拐し「安全のため」防空壕に入れるような措置は、クーデタ-あるいは大統領官邸への攻撃以外でなければ何だろうか?

ここで私達が持っている要素をまとめてみよう。ホワイトハウス別館で火事が起きた。テロの犯行声明がシ-クレットサ-ビスへの電話で行われる。攻撃者は要求、さらに最後通牒を突きつけ、大統領府の伝達・認証暗号を用いて彼らの電話を信用させた。シ-クレットサ-ビスは政府継続手続きを起動し主要な政治指導者を避難させた。ブッシュ大統領は午後に交渉を行い、事件は夕方に収まった。

ゆえに、テロの首謀者は神の懲罰達成を信じる一人の狂信者ではなく、アメリカ国家機関の内部に存在する1つの集団である。彼らはブッシュ大統領に1つの政策を課すことに成功した。制度を転覆させるク-デタ-というより、制度内に隠れた特定の集団による権力掌握が行われたのではないか。

第四章 FBIの大げさな身振り

アメリカの栄光をなす信じられないような組織感覚で、FBIは9月11日に人類史上最大規模の犯罪捜査を開始した。Penttbomb(Pentagon-Twin Towers-Bombの略)がその名前である。FBIは職員の4分の1の動員を要求した。4千人のFBI職員を含む7千人の公務員が集められた。FBIは自費で法務省の他の機関からも人々を集めた。犯罪捜査局、検事局、移民帰化局など。また、FBIはアメリカ情報機関の人間全員の支持を得た。特にCIA、NSA、DIAである。さらにFBIは外国でも各国の警察の協力を得た。インタ-ポ-ル、あるいは同盟国の警察と直接協力することができた。

手がかりを集めるため、FBIはテロのあった日の晩から、目撃者を探していると発表した。3日間で電話が3800本かかり、3000通の電子メ-ルが届いた。諜報員からは2400の報告が提出された。

テロの翌日FBIはすでにテロリストの作戦を確立していた。ビンラディンの組織の人間が合法的にアメリカ領土内に入っていた。航空機操縦の研修を集中的に受けたという。彼らは5人ずつ4チ-ムを組んで旅客機をハイジャックした。任務は大きな標的に墜落することだった。9月14日、FBIは19人のハイジャック容疑者の名前つきのリストを発表した。

これに続く数週間、国際メディアは自爆テロ犯の生活を再構成した。彼らの友人も隣人も彼らの意図を疑うことができず、西洋の警察も彼らを見分けることができなかったことがメディアによって明らかにされた。群集の中に溶けこみ、自己の確信を注意深く隠していたこの「眠った」スパイたちは、彼らの任務の日に初めて「目を覚ました」という。影に潜んだ他の「眠ったスパイ達」もおそらく彼らの時が来るのを待っているだろう。西洋文明の上を漂う検知しえない脅威だ、云々。

方法論的にいえば、明らかにぞんざいに片付けられた捜査である。これほど複雑な事実に基づく犯罪捜査の場合は、警察官は多数の仮定を立ててその全ての道筋を最後まで調べねばならない。いかなる仮定も無視するべきではなかっただろう。内部テロの仮定は原則として退けられ決して検討されなかった。そのかわりに、ウサマ・ビンラディンはテロ数時間後に「捜査に近い情報筋」からすでに指名されていた。世論は犯人を求めていた。政府は世論に対し即座に犯人を指名した。

ハイジャックされた4機の飛行機においてテロリストは5人のチ-ムを組んでいた。5人は最後の瞬間になって合流したという。しかし、ペンシルヴァニア上空で爆発した93便に乗っていたテロリストは4人だけだった。5人目のザカリアス・ムサウイは滞在許可証がなかったために少し前に逮捕されていた。最初FBIは全てのハイジャック犯が自己犠牲するよう訓練を受けていたと主張した。その後、ウサマ・ビンラディンのカセットビデオが発見された後は、FBIはハイジャック犯のうち飛行士だけが自爆テロ犯で、他のメンバ-はこの任務の自殺的性格を間際になって知ったと主張した。いずれにせよ、自爆テロ犯のチ-ムというアイデアは驚かせる。実際は、自殺の心理はきわめて個人的なものである。第二次世界大戦では、日本の神風特攻隊は一人ずつ行動した--彼らの行為が集団的に協議されたとはいえ。最近では、ロッド空港のテロ(イスラエル、1972年5月)の際この技術を近東に持ち込んだ日本赤軍のメンバ-は3人で行動するが、これも連帯するための特別訓練を受けた後で行う。ロッド空港のテロリストの一人岡本公三は捕獲された。間際になってチ-ムを組んだ自爆テロ犯の例は知られていない。

さらに、サルマン・ラシュディが指摘しているように、ハイジャック犯が自爆特攻隊ならば、彼らはイスラム主義者ではなかった。コーランは自殺を禁じているからだ。イスラム主義者は殉教者として死の危険に身をさらすことはあっても自分で自分の命を絶つことはない。

しかしながら、自爆テロリスト犯人説はFBIが英語訳を発表し世界のメディアが引用したアラブ語の資料によって確証された。資料は三部見つかったという。その一つはモハメド・アッタが乗り換えのときに紛失したス-ツケ-スの中にあった。もう一部は、ダラスの空港で乗り捨てられた車の中にあるのをナワフ・アルハズミが見つけた。三部目はペンシルヴァニアのスト-ニ-クリ-クタウンシップの上空で爆発した93便の残骸の中に見つかった(欧州の新聞の多くは誤ってFBIがこの資料をペンタゴンのがれきの中に見出したと報じた)。

この資料は4ペ-ジに渡る宗教的な忠告である。

1、死の誓いをせよ。汝の意図を繰り返すこと。体の毛を剃り、オ-デコロンをつけること。シャワ-を浴びよ。2、計画の全ての詳細をよく知っているかどうか確認せよ。反撃、敵の反応を予期せよ。3、アルタウバとアンファル(好戦的なコ-ランの節)を読め。その意味をよく考え、神が殉教者に約束したすべてのことに思いをはせよ。

中世的な準拠に特長付けられ、古典神学的文体で書かれたこの資料は、復讐心に燃えた国民にアメリカ当局が与えた狂信者のイメ-ジを助長するのに大きく貢献した。しかし、これは粗雑に作られた偽の資料である。イスラム教になじみのある人なら誰でもその突飛さが分かるだろう。この資料は「神と私と私の家族の名において」という文句で始まるが、アメリカの清教徒セクトとは異なり、イスラム教徒は自分自身や家族の名において祈ることは決してない(ジャ-ナリストのボブ・ウッドワ-ドもこの異常を当日に指摘している、2001年9月28日ワシントンポスト)。また、このテキストにはコーランの語彙にふさわしくないヤンキ-言葉の癖が見られる。例えば、「汝はこれと対決して100パ-セント理解しなくてはならない」と言っている。

FBIはモハメド・アッタが作戦の指導者だったと主張する。33歳のエジプト人は10年間に、スペインのサロウ、スイスのチュ-リッヒ—-そこで飛行機をハイジャックするためのスイスナイフをカルトブル-で購入したと捜査官は言う—-そしてドイツのハンブルクに滞在したという。他の2人のテロリストと同様、電子技術の学歴を持ち、人々の噂になったことも、過激主義的確信について知られたこともない。アメリカに着くと、フロリダの共犯者に合流しヴェニスで飛行教習を受けた。マイアミで数時間の飛行シミュレーションのための費用を払った。モハメド・アッタは自己の原理主義を隠すため世界最大のトップレスキャバレ-、ラスベガスのオリンピックガ-デンに通うという配慮さえした。この比類ないスパイは9月11日、国内便でボストンに向かった。二つの便の乗り換え時間が短かったため、彼は自分の荷物を紛失した。

彼の荷物を調べたFBIはボ-イング機操縦訓練のビデオとイスラム教の祈りの本、そして殉教して死にたいという意図を述べた古い手紙を見つけた。飛行機のハイジャック中に携帯電話で電話し、アッタの座席が8Dであると述べたスチュワ-ドによって、アッタは実行犯のリ-ダ-であると認められた。

このような情報を本気にするべきだろうか?モハメド・アッタは10年間のあいだ注意深く意図を隠しなが情報局から逃れるため厳密な手段で共犯者と連絡を取っていたという。それにも関わらず、最後の瞬間になって大量の手がかりを残していったという。作戦のリ-ダ-だというのに、飛行機の乗り換えを失敗する危険さえ冒し、それでも最終的にアメリカン航空11便に乗ることに成功したという—-自分の荷物を紛失したままで。そもそも、自殺するのに、荷物など持って行くだろうか?

最も滑稽なのは、FBIがモハメド・アッタの無傷のパスポ-トを貿易センタ-ビルの煙立ち上る廃墟の中から発見したと主張することだ!これは奇跡としか言えない。いかにしてこの資料があれほどの試練に生き残ることが出来たのだろう?

FBIが証拠資料を捏造しているのは明白である。災害を防ぐことができなかったのであらゆる手段で名誉挽回しようとする警察の慌てた反応だけを見るべきなのかもしれない。

しかし、より心配なのは、自殺テロリストの身元に関して論争が起きたことだ。世界のメディアは19人のテロ容疑者のプロフィ-ルについて多くを語った。全員が25歳から35歳の男性だ。アラブ人でイスラム教徒、大部分はサウジアラビア人である。皆、教育を受けている。彼らは理想により、あるいは絶望により行動を起したのだろう、云々。

この絵に影を落とす唯一の点は、この容疑者画像のもとになっているリストが議論の的になっていることだ。ワシントンのサウジアラビア大使館はアブルアジズ・アロマリ、モハンド・アルシェリ、サレム・アルハズミ、サイ-ド・アルグハムディは元気に生存しており自国に在住していることを認めた。モロッコ在住でロイヤル・エア-・モロッコの操縦士を務めているワリ-ド・M・アルシェリはロンドンのアラブ語新聞Al-Qods al-Arabiのインタビュ-に答えている。サウジアラビアの外務大臣サウド・アル=ファイサル王子はメディアに対し、「FBIのリストで指名されている人々のうち5人は事件と何の関係もないことが証明されている」と述べた。内務大臣のナイエフ王子は「現在まで、FBIが犯人とみなす15人のサウジアラビア人が9.11テロと関係があるという証拠は1つも存在しない」とアメリカ代表団に述べている(Saudi Minister Asserts That Bin Laden Is a « Tool »of Al Qaeda, Not a Mastermind, Douglas Jehl, ワシントンポスト2001年12月10日 )。

テロリストがこれらの人々だったということがどうやって特定できたのか?9月13日に発表された犠牲者のリストを参照すると、驚くべきことに、ハイジャック犯の名前はそこにはない。まるで犯人が除去され、「無実の犠牲者」と乗務員の名前だけを発表したかのようだ。乗員の数を数えるとアメリカン航空11便(北タワ-に衝突)には78人の無実の犠牲者が乗っており、ユナイテッド航空175便(南タワ-に衝突)には46人、ペンタゴンに衝突したと主張されるアメリカン航空77便には51人、ユナイテッド航空93便(ペンシルヴァニア上空で爆発)には36人が乗っていた。多くの乗員の身元が確定していないため、このリストは不完全である。

9月11日に航空会社が出した声明によれば、11便には81人が乗っており、175便には46人、77便には58人、93便には38人が乗っていた(AP通信の発表)。

ゆえに、11便が3人以上のテロリストを乗せたことはありえず、93便が2人以上テロリストを乗せたこともありえない。乗客リストにハイジャック犯の名前が存在しないのは、ポリティカルコレクトネスの配慮で除去されたからではない。彼らは単に乗客の中にいなかったのである。スチュワ-ドが座席番号8Dのお陰でアッタを特定したのも、嘘だったということだ。

要約しよう。FBIはハイジャック犯のリストをでっちあげ、そこから西洋の敵達のポートレ-トが作られたのだ。私達はハイジャック犯がアラブ人イスラム主義者で自爆テロリストだったと信じるように頼まれているのだ--アメリカ国家内部犯行説など却下するようにと。実際は私達は何も知らないのだ。“テロリスト”が誰だったのかも、彼らの作戦がいかなるものだったのかも。全ての仮定が可能なのだ。全ての犯罪事件と同様、最初の質問は「この犯罪で得をした者は誰か?」である。

テロの翌日、インサイダ-取引に特徴的な操作が攻撃の6日前から行われていたことが確認された。WTC南タワ-とピッツバ-グに墜落した飛行機を所有する会社、ユナイテッド航空の株価は人工的に42%下がった。WTC北タワ-とペンタゴンに墜落した飛行機の会社、アメリカン航空の株価は39%下がった。これほどの操作の対象になった航空会社はKLMオランダ航空を除いて他にない。そのため、第五のハイジャックの対象として選ばれていたのはこのオランダの会社の飛行機だったと演繹することもできる。

モルガン・スタンレ-・ディ-ン・ウィッタ-・アンド・カンパニ-の株価のオプション取引でも同じような操作が確認された。売りオプションはテロ直前の一週間で12倍増加した。この会社の事務所はWTCの22階にあった。崩壊する危険がある隣の建物に事務所を持つメリル・リンチ・アンド・カンパニ-の株価の売りオプションについても同様で、25倍も増加した。そして、とりわけ、事件に巻き込まれたMunich ReSwiss ReやAXAなどの保険会社の売りオプションについて同様の操作が見られた。

シカゴの証券取引監視委員会が最初に警報を出した。監視委員会はシカゴの証券取引所でインサイダ-取引者がユナイテッド航空に関して5百万ドル、アメリカン航空について4百万ドル、モルガンスタンレ-では120万ドル、メリル・リンチでは5百50万ドルの利益を上げたことを確認した。

捜査官に直面し、インサイダ-取引者は、通報される前に領収する暇がなかったアメリカン航空からの250万ドルの利益を諦めた。

各地の大きな証券取引所の監視局はインサイダ-取引での利益獲得を記録した。証券監督者国際機構(IOSCO)が調査を始める。10月15日、IOSCOはビデオ会議を開き、各国政府が報告を出した。不法利益は数億ドルにのぼり、これは「史上最大規模のインサイダ-取引」であったことが分かった。

ウサマ・ビンラディンの銀行口座は1998年以来差し押さえられており、彼はこの投機に必要な金を持っていない。アフガニスタンのイスラム首長国タリバン政権も資金を持っていない。

実際、ビル・クリントンは大統領令13099によってウサマ・ビンラディンとその協力者と彼らの協会・会社の全ての資産を凍結した。この大統領令は、ナイロビとダルエスサラムのテロへの報復の日を記念し1998年8月7日に署名された。国際連合安全保障理事会の決議1193によりこの決定は国際化された(1998年8月13日)。ビル・クリントンは1999年7月4日、大統領令13129によりこの措置を“タリバン達”とその協力者の銀行口座にも拡大した。最終的に、1999年10月19日、国連安全保障理事会の決議1269で「国際テロリズム」の資金に関係のある人間と組織の資産の国際的凍結が宣言された。この日以降は、「億万長者ビンラディン」と言うことは滑稽になった。ビンラディンが自分自身の財産を利用することは一切できなくなったのだから。彼が得られる資金は秘密の支援(アメリカか外国からの援助)にのみ由来する。その援助も、アフガニスタンのイスラム首長国から来ることはもはやありえない。

この取引の大部分はドイツ銀行とそのアメリカの子会社である投資銀行アレックス・ブラウンによって行われたことが証明された(Suspicious Profits Sit Uncollected Airlines Investors Seem to Be Lying Low, Christian Berthelsen and Scott Winokur, San Francisco Chronicle 2001年9月29日)。この会社の社長は1998年までA.B.クロンガ-ドという一風変わった人物であった。海軍の大尉で射撃や武道を好むこの銀行家は 、3月26日以来CIA長官顧問、アメリカのの情報部のナンバ-3になっていた。調査の重要さとクロンガ-ドの影響力を考慮すれば、アレックス・ブラウンはインサイダ-取引者の特定について何の問題もなく当局に協力しただろうと考えられる。しかしそれは実現していない。

奇妙なことに、FBIはこの手がかりを探索することを諦め、IOSCOは事件を解決せずに調査を打ち切った。しかし、資本の動きの跡を知ることは簡単なのだ。銀行間の全ての取引は2つのクリアリング機関が保存している(Révélation$, Denis Robert et Ernest Backes, Les Arènes ed 2001参照)。争点の重要さを考慮すれば、銀行秘密を強制的に開示させ9.11テロによる利益獲得者を明確にすることが可能だったはずだ。しかし、それは実現していない。

かつてないほどの調査手段を手にしたFBIは、私達が指摘する矛盾の一つ一つを解明するべきだった。なによりも、シ-クレットサ-ビスに攻撃者が与えたメッセ-ジを調べ、攻撃者の特定に努めるべきだった。ペンタゴンで実際には何が起きたのかを解明するべきだった。情報を前もって知っていた投資家を追跡するべきだった。テロ2時間前にWTCで働く人々に警告するためにオディゴに送られたメッセ-ジの源を遡るべきだった。

ところが、私達が示したように、犯罪捜査を行うどころか、FBIは手がかりを消失させ、証言を黙らせることに努めた。外国からの攻撃という説を支持し、即興でハイジャック犯のリストを作り、偽の証拠物件(モハメド・アッタのパスポ-ト、自爆テロリストへの指示書など)を作り上げて、この説を信じさせようとした。

この世論操作の作戦を指揮したのはFBI長官ロバ-ト・ミュラ-3世だ。この不可欠な人物は、ジョ-ジ・W・ブッシュによって9月11日の1週間前に任命され職務についたばかりだった。この偽りの捜査は平等な訴訟に役立てるためになされただろうか?それとも犯人がアメリカ出身のアメリカ人だったことを隠蔽し、未来の軍事行動を正当化するためになされたのだろうか?

第二部 アメリカにおける民主主義の死

第五章 報復?それとも儲け物?

9月11日の晩、ジョ-ジ・W・ブッシュ大統領は神秘的な口調で国民へ向けたテレビ演説を行った。「(……)アメリカが狙われたのは、この国が自由と進歩の世界で最も輝かしい模範だからです。この光が輝くのを誰も妨げることはできないでしょう。今日、私達の国は悪を、人間の性質の最悪のものを見ました。私達はアメリカの持てる最高の手段でこれに対処しました。果敢な救助隊、他者の介護、自分の血液を与えるために来て、あらゆる手段で援助しようとする隣人達、(……)この憎むべき行為の背後にいる者達を見出すための捜索が行われています。犯人を見つけ出して裁判にかけるため、情報・警察に関する全ての手段を総動員するよう命令を出しました。この行為を実行したテロリストと彼らを保護する人々を全く区別しないつもりです。(……)今晩、苦しんでいる全ての人々のため、世界が砕かれた子供達のため、安全が脅かされた全ての人々のために祈ってください。私達の上に存在する全能なる者によって彼らが励まされるよう祈ります。そのみ言葉は年月を超えて詩編23に伝えられています。「死の影の谷を歩くとき私はいかなる苦しみをも恐れない。なぜならあなたが私と共にあるからだ」と。今日は、出身地がどこであろうと全てのアメリカ人が正義と平和を求める決意を持って団結する日です。アメリカは過去に敵と対決しました。私達は再び敵と対決するでしょう。私達のうちの誰一人、今日の日を忘れる者はないでしょう。それでも、私達は世界の自由と全ての善なるもの、正しいものを守り続けるでしょう。ありがとうございました。おやすみなさい。アメリカに神のお加護があらんことを。」

一致団結を呼びかけるこのメッセ-ジにも関わらず、また、当時ウサマ・ビンラディン首謀者説は仮定にすぎなかったにも関わらず、ブッシュ政権の内部では背反する二つの政策選択が推進されていた。国務長官コリンパウエル将軍と米軍統合参謀本部議長ヒュ-・シェルトン将軍を中心とした穏健派はビル・クリントンが1998年に命じた報復措置に倣った、テロの規模に匹敵した報復を勧めた。1998年にはダルエルサラムとナイロビの米国大使館に対するテロへの報復として、オマ-ン海の潜水艦からアフガニスタンのアルカイダ訓練キャンプとス-ダンのアルシファ研究所へ向けてトマホ-クが発射された。一方、タカ派は「アルカイダが攻撃を再開した以上あの攻撃は役に立たなかった」と指摘した。タカ派にとってアフガニスタン本土軍事介入だけがウサマ・ビンラディンの基地の決定的除去を可能にする。しかし、遠征はそこで終ってはならない。遠征は続けられ、潜在的な全ての危険、すなわちアルカイダに匹敵するほどの脅威となりうる全ての組織と全ての国家が破壊されなければならない。

元国務長官で、1969年から1976年までアメリカの秘密情報局の秘密活動を監督した、年老いたヘンリ-・キッシンジャ-はタカ派の後見人として彼らにアイデアを提供する。大統領のテレビ演説が終るか終らないかのうちに(ブッシュ大統領の演説は午後8時30分に始まり、キッシンジャ-博士の見解は午後9時04分にインタ-ネットに掲載された)、キッシンジャ-はワシントン・ポストのウェブサイトに意見を発表した。

「政府はパ-ルハ-バ-攻撃に続いた報復と同じ結果に到るような—-そうなることを期待するが—-そのような徹底的な対応を行う任務を与えられたと考えるべきだ。このシステムはテロ組織網であり、いくつかの国の首都にそのテロ組織は隠れている。多くの場合、我々はテロ組織のメンバ-をかくまっているという理由でこれらの国々に制裁を加えることはない。それらの国々とほぼ通常の関係を維持する場合もある。(……)我々はウサマ・ビンラディンがこれらの活動の犯人であるかどうかまだ知らない—-このテロがビンラディンタイプの作戦の属性を持っているとはいえ--。それでも、この種の攻撃を犯す能力のある集団をかくまっている政府はすべて—-その集団が今日の攻撃に関与していなかったとしても—-、そのような国はすべて、そのために巨大な代価を払わねばならないだろう。我々は落ち着いて思慮深く仮借ないやり方で対応するべきだ。」

9月12日と13日、アメリカの世論がまだショック状態にあり、近親者の死を嘆いている時に、アメリカ政府も世界各国の政府も3つの問いに支配されていた。ジョ-ジ・W・ブッシュはアルカイダをテロの犯人として指名するだろうか?彼はアフガニスタンでいかなる種類の作戦を命じるだろうか?彼は自国をその現実の敵、あるいは仮想上の敵に対する長期の戦争に巻き込むだろうか?

アメリカの公職者達は、ウサマ・ビンラディンとその組織アルカイダをそれぞれテロの出資者、実行者として指名するための打ち明け話を次々とメディアに提供した。CIA長官ジョ-ジ・テネットは、9月11日のアルカイダの通信の傍受に関する一連の報告をブッシュ大統領に提出した(Wednesday, September 12, Bob Woodward and Dan Balz ワシントンポスト2002年1月28日)。それによれば、テロは2年前から計画されていた。そしてこれは長い一連のテロの始まりにすぎないという。キャピトル(米国議会議事堂)もホワイトハウスもその標的に含まれるという。アルカイダの指導者はあやまって、複数の標的攻撃に成功したと信じたという。だから彼らは「キャピトルの建物における爆発について神に感謝」したのだ。だから彼らは「ホワイトハウスの破壊」を称え、「博士の計画」を祝ったのだ(博士とはウサマ・ビンラディンの右腕、アイマン・ザワリのこと)。この作戦は2000年10月に起きたミサイル駆逐艦USAコ-ルに対するテロの首謀者だと疑われているアブ・ズベイダによって発動されたという。

これに続き、ブッシュ大統領がメディアに発言する。「私の顧問達とともに国の安全保障に関する会議を行ったばかりです。情報局が最近解明された点を私達に報告しました。昨日我が国に対して犯された計画的犯罪はテロ行為であるというだけではありません。これは戦争行為です。その結果、我が国は決意を持って団結する必要があります。自由と民主主義が攻撃されているのです。アメリカ国民は私達が直面している敵が過去のいかなる敵にも似ていないことを知るべきです。この敵は影に潜み、人間の生命を全く尊重しません。この敵は無実で他人を信頼する人々を餌食にした後、逃げて隠れます。しかし永久に逃げ続けることはできないでしょう。この敵は身を隠そうとしますが、永久に隠れていることはできません。この敵は隠れ場所が安全だと思っています。しかし永久に安全であるというわけにはいきません。この敵が攻撃したのは私達の国の国民だけではありません。自由を愛する全ての人々を攻撃したのです。この敵を打ち負かすため合衆国はあらゆる手段を用いるでしょう。私達は世界を味方につけるでしょう。私達は辛抱強くあり続けるでしょう。目的に集中し、決意を揺るがせないでしょう。この戦いには時間と決意が必要です。しかし、見誤ってはいけません。私達はこの戦争に勝つでしょう。(……)しかし、わたしたちの敵に勝たせ、私達の生活様式を変え、自由を制限することはしません。今朝、私は議会に、被害者を助けニュ-ヨ-クとワシントンの市民が悲劇から立ち直れるように援助し私達の国民の安全を守るため必要な全ての手段を得るための緊急支出を求めました。議会の皆さんの団結と支持に感謝します。アメリカは1つになりました。自由を渇望する国々の国民は私達の味方です。この“悪”に対する“善”の戦いは巨大な戦いになるでしょう。しかし“善”が勝つでしょう。」

好戦的な宣言を次々に発するイギリス外務省を例外として、世界各国の政府はブッシュ大統領の反応を不安気に見守っていた。各国政府は、ドイツ、エジプト、フランス、イスラエルそしてロシアの情報部がアメリカの情報部に警告していたにも関わらずCIAが危険を過小評価したことを知り、あまりにも早く出され、あまりにも冗漫なCIAの報告と、あまりにも速く進展するFBIの捜査の信頼性に疑問を抱いていたのである。

各国の首脳部はブッシュ大統領が国内の世論を安心させるため、当を得た犯人を指名し即急で不均衡な軍事報復にアメリカを巻き込むのではないかと不安に思っていた。

その同じ日(2001年9月12日)に、国連の安全保障理事会は決議1368を採決した。決議は「サンフランシスコの憲章に従い、(合衆国の)個人的・集団的な正当防衛の本質的権利」を認めている。決議はまたこう規定する。「安全保障理事会は、全ての国家へこのテロの犯人、計画者、出資者を裁判にかけるために協力するよう呼びかける。犯人、計画者、出資者を支持し宿泊させた責任のある者は全て責任を取ることになるだろう。」べつの言葉で言えば、安全保障理事会は、テロの犯人を逮捕し国際法廷で裁くため、必要とあればこれらのテロリストを庇護する国の主権を侵害する権利をアメリカに認めた。しかし、この決議は、アメリカが自分達で復讐を行い、他国を攻撃してその国の政府を倒すことを認めてはいない。

その晩、北大西洋理事会は関係者以外立ち入り禁止の会議を開いた。会議では、このテロに対し、メンバ-国はアメリカに援助するが自分達の軍隊は参加させないことを決めた。通常とは異なり、会議に緊張感が漂った。メンバ-国の中にはテロがアメリカ国家機関内部の犯行である可能性を信じる国もあり、それらの国々は目的も限界も不確かな“対テロ戦争”に関わることを拒否した。NATO事務総長ジョ-ジ・ロバ-トソン卿は会議の後、「この攻撃が合衆国に対する外国からの攻撃だと証明された場合は、ワシントン条約の第5条に記された活動と同一視される」と述べた。事件の展開に不安を持ったフランスのジャック・シラク大統領はジョ-ジ・W・ブッシュに電話をする。フランスは常にアメリカの最も従順なとは言えないとしても最も忠実な同盟国であると述べた後、シラク大統領は礼儀正しく、NATOの決定は持参者払いの小切手を切るようなものではない---アメリカの政策への盲目な賛同ではないと説明した。

数日後、ジャック・シラクは以前から予定されていた米国訪問を行った。その際、シラクはアメリカ国民への連帯を示す熱のこもった発言を何度も行ったが、他方でアメリカの熱を冷ますため、国連事務総長と共同記者会見を開き、「アメリカの報復は身元が特定されたテロリストに対して、また必要とあればその身元が特定されたテロ集団に援助を与えた証拠が存在する国や集団に対して行われるべきである」と単刀直入に述べた。

各国政府の不安は司法長官ジョン・アシュクロフトとFBI長官ロバ-ト・ミュラ-3世の共同記者会見での小事件で確証された(2001年9月12日FBI本部での記者会見)。警察長官が記者達に容疑者の有罪判決に必要な証拠を集めるために調査を急ぐ必要があると説明しているとき、司法長官が乱暴にこれを遮った。ジョン・アシュクロフトは時間がないことを強調し、FBIの任務はできるだけ早くテロリストの共犯者を、彼らが新たな犯罪を犯す前に逮捕することだと述べた。証拠がないのは残念だが、仕方がないというわけだ。

9月13日、政府内部で人々の口調は強まる。朝には対テロ警報によりホワイトハウスの職員が部分的に避難した—-これは習慣になった—-チェイニ-副大統領は離れた場所にある避難所に運ばれた。しかし偽の警報だった。まさに心理劇。午後には国防副長官ポール・ウォルフォウィッツがペンタゴンの記者会見を開く。ウォルフォウィッツは軍事産業ロビ-内部の最も過激な保守派集団の専属スポ-クスマンである。彼は何年も前からイラクで「汚い仕事を終らせる」ために活動を続けており、9.11事件は彼らが望むサダム・フセイン打倒を容易に正当化すると見た。彼は記者会見で標的を明確にせず、アフガニスタンともイラクとも述べない。しかしアメリカの報復が「孤立した活動ではなく遠征」となるだろうと述べた。「私達はこの人々と彼らを支持する者達を、それが終止するまで追跡し続けるでしょう。そのように行動しなくてはなりません」と彼は宣言する。

コリン・パウエルはタカ派の足元で草を刈り取るつもりでウサマ・ビンラディンを「主要な容疑者」として提示し、彼が制限された戦争となることを望むアフガニスタン介入を急速に準備する。彼はパキスタンに一種の最後通牒を突きつけ、アメリカに全ての軍事施設使用を許可するよう、またタリバン政権との政治経済的な関係を停止するよう要求した。

実際、私達が後に確認するように、米政府内でのこの議論は新しいものではない。アフガニスタン攻撃と広範囲の対テロ戦争という二つの選択肢はテロの前から検討され準備されていた。その存在理由は9月11日の事件とは関係がない。9.11テロはこれらを実行にうつすアリバイを提供しただけだ。その後の議論は、世論が標的の定まった攻撃だけを許すか、長期の戦争を受け入れるのに十分ショックを受けているかという点に関して行われる。最終的に、国民の精神的ショックはあまりに大きいため、米政府の戦略家は選択をする必要がなく、二つの選択肢を両方とも始動することができるだろうということが明確になった。

2001年7月半ば、アフガニスタンの将来に関するベルリンの交渉会議の失敗を確認したトム・シモンズ(元パキスタン米国大使)とカール・インダ-ファース(元国務省補佐官)とリ-・コルドレン(国務省専門家)に率いられたアメリカ代表団は威嚇的な態度に出た。交渉に参加した元パリ駐在パキスタン大使ニアズ・ナイクによれば、アメリカ側は10月半ばにアフガニスタン侵攻を行いタリバン政権を倒す予定だと宣言したという(US Planned Attack in Taliban, BBC 2001年9月18日、Secret Memo Reveals US Plan to Overthrow Taleban Regime in The Guardian 2001年9月21日)。

9月初頭、オマ-ン海での毎年恒例のエッセンシャル・ハ-ヴェスト作戦を装って、英国はフォークランド紛争以来最も大規模な戦艦展開を行い、パキスタン沖に軍隊を集めた。NATOはエジプトのブライトスタ-作戦の際に4万人の兵士をこの地域に移動させた。こうして、米英の軍隊はテロの前にこの地帯に待機していたことになる。

「対テロ戦争」に関しては、アメリカ統合参謀本部議長が2つの「ウォ-ゲ-ム」(戦争シミュレ-ション)すなわちグロ-バル・エンゲ-ジメントIVとJEFX99(Joint Expeditionary Force Experiment 1999)の際に時間をかけてこれを準備した。2000年6月の最近のシミュレ-ションの際、戦略的手順が調整された。しかし2001年6月に計画されていたウォ-ゲ-ムは中止された。関係者はこれを作戦が実行に移されるという合図だと解釈した。合衆国は常に戦争の主導権を握ることを嫌がってきた。過去にも、彼らは自分達の軍事行動を正当防衛として提示するよう努めた。9.11テロにより、彼らは夢に見た機会を見出した。

第六章 弔辞から聖戦へ

神を除外して戦争することは稀だ。そのため、説教家達が軍の戦略家よりも頻繁にテレビに出演した。説教家達は皆、このテロがアメリカ人の改宗を求める神のしるしであると解釈した。「全能の神は私達の保護を取り去った」と、影響力の強いキリスト教連合のリ-ダ-、パット・ロバ-トソン牧師は書いている。「私達が物質的快楽と性的快楽の追求にふけっているからだ。」パット・ロバ-トソン牧師は彼の主要な番組、フォックスチャンネルの700クラブに友人のジェリ-・ファルエルを招いた。2人のテレビ福音伝道師はアメリカを喪に服させたこの事件を分析した(God Gave US « What We Deserve »,Falwell Says , John Harris ワシントンポスト2001年9月14日)。「神が帳を上げ続け、アメリカの敵達が私達に苦痛を課すことを許している。私達はそれを受けるに値するのだろう」とファルエルは宣言する。「ジェリ-、私もそう思っています」とロバ-トソンが答える。「私達は恐怖の始まりを発見しただけだと思います。彼らが大多数の国民にに対して何をなしうるか、まだ見え始めてさえいません。」

ファルエルは続いてアメリカ自由人権教会(ACLU :American Civil Liberties Union)、連邦法廷、「神を公共の場から追放する」全ての者達を批判する。「堕胎医も彼らに課された重荷を背負うべきです。神を馬鹿にしてはならないからです」と彼は続ける。「44万人の無実の赤ん坊を破壊すれば、神は激怒します。無神論者、堕胎医、フェミニスト、ゲイ・レズビアンなどこれを代わりの生活様式として積極的に採用する人々、ACLU、Peuple for the American Way(表現の自由擁護団体)、アメリカを非宗教化しようとする全ての者達に責任があります。あなたがたがこのような事件を可能にしたのだと私は言いたい。 」

ブッシュ大統領はこの文脈で--宗教のレトリックが政治的軍事的利益に役立つような状況で—-、アメリカと文明世界の精神的指導者のような態度で新たな大統領令を発令する(2001年9月13日)。「私達の心は無実な者達の命を突然理由もなく奪われたために苦しんでいます。私達は自分達を癒すため、また互いに助け合うため、希望と信仰へと互いを励まし合うための力を見出すために祈ります。聖書でこう言われています。苦しむ者は幸いである、彼らは慰められるからである、と。私はアメリカに住む全ての家族とアメリカの“家族”がこの暴力的な攻撃の犠牲となった数千人の人々の記憶へ敬意を表するため、また愛する者を亡くした人々に励ましを与えるため、今日この日を国民が祈り記念する日にして欲しいと思います。私達は国の悲劇と個人的な損失を乗り越えるでしょう。時間と共に傷を癒し再び立ち上がりましょう。この“悪”全体に対し、神に見守られた1つの国として私達は力強く統合し続けましょう。ゆえに、以下に署名するジョ-ジ・W・ブッシュ、アメリカ合衆国大統領は、憲法と合衆国法が私に託す権威に基づき、2001年9月14日金曜日を2001年9月11日のテロ攻撃の犠牲者の国民追悼日とすることを宣言します。アメリカ国民と信仰の場所がこの祈りと追悼の日に正午の追悼行事を行いその時刻に鐘を鳴らし、晩には蝋燭を灯して祈りの通夜を行うよう求めます。雇用者は昼食の時間に被雇用者が昼の祈りに参加できるよう時間を与えるようにしてください。世界中の人々が私達の苦しみを分かち合い、これらの勧めを荘厳に遵守して頂きたいと思います。誓いの印として、私は主の紀元2001年およびアメリカ合衆国独立後226年目の9月13日に署名します。」

ワシントン大聖堂で過去に例のない儀式が行われる。ブッシュ大統領夫妻、4人の元大統領(ビル・クリントン、ジョージ・ブッシュ父、ジミ-・カ-タ-、ジェラルド・フォ-ド)および上院・下院の議員のほぼ全員が共に祈った。枢機卿、ラビ、イマムも儀式を執り行った。15年前にジョージ・W・ブッシュを改宗させた世界で最も有名なテレビ伝道師ビリ-・グラハムは説教を行う。「この国で絶対に必要なものは宗教の再生です。アメリカに宗教が再生することが必要なのです。神はみことばの中で何世紀もの間、私達が悔悛し神のほうを向くべきであり、神が私達を新たな形で祝福されると言われています。(……)今、私達は選択肢を持ちます。国民が感情的・宗教的に分裂・分解するか、それともこれらの試練を乗り越えて一層強くなり固い基盤に基づいて国を再建するかという選択肢です。私は、私達がすでにそのような基盤に基づいて再建を始めていると思います。その基盤とは、私達の神への信仰です。(……)私達は主が大統領と彼を取り巻く人々に英知と勇気と力を与えたまうはずだと知っています。私達はこの日を一つの勝利として記憶するでしょう。」

ブッシュ大統領もまた説教台に上って説教を行う。彼の顧問である聖書原理主義者マイケル・ジャ-ソンがこの文章を準備した。「歴史に対する私達の責任は明確です。私達はこれらの攻撃に対応し世界を“悪”から解放しなければなりません。彼らは私達に計略、詐欺、殺人によって戦争をしかけました。私達の国は平和を好む国です。しかし、怒らせた場合は容赦がありません。(……)神の印は常に私達が求めるものではありません。この悲劇にあって私達は神の目的は必ずしも私達のそれとは同じではないことを学びます。しかし、祈りと苦しみは、それが家庭の中であろうと大きな教会の中であろうと、神に聞こえ、理解されました。私達の一日を支え夜を耐えられるよう助ける祈りもあれば、私達に力を与える友人や外国人の祈りもあります。そして、私達の意志を私達より強力な意志に従える祈りがあります。(……)アメリカは幸運に祝福された、恩恵に満ちた国です。しかし苦しみは私達を容赦しませんでした。各世代において、世界は人間の自由の敵を生みました。彼らが私達の国を攻撃したのはこの国が自由の中心であり擁護者だからです。私達の祖先の取り組みは私達の時代の呼びかけです。この祈りと追悼に捧げられた国民の日において、全能なる神に我が国を見守り将来の出来事に関する忍耐と意志を与えてくださるようお願いします。神が苦しみの中にある人々を励まし慰めてくださるよう祈ります。失った生命について、新たに生まれる生命の約束について神に感謝します。私達は確信します。死も、生命も、天使も、権天使も、この世の権力も、現在の物事も来るべき物事も、高さも深さも、神の愛から私達を切り離すことはできません。神が失われた魂を祝福しますように。神が私達の魂を励まし、私達の国を永久に導きますように。アメリカに神のお加護があらんことを。」

ワシントンポストは後にジョ-ジ・W・ブッシュの変身を分析した。「宗教保守主義が政治運動になって以来、初めて合衆国大統領はその事実上の指導者になった。宗教保守主義者から称賛されたロナルド・レ-ガンさえ達することができなかった地位である。キリスト教雑誌、ラジオ、テレビがブッシュの祈る姿を見せ、説教台の説教士が彼のリ-ダ-シップを神の行為であると形容する。ブッシュに会った宗教指導者たちが揃って彼の信仰について証言し、ウェブサイトは人々に大統領のために断食をし祈るように呼びかける(Religious Right Finds its Center in Oval Office Dana Milbankワシントンポスト2001年12月24日)。」

9月14日正午、ロシアを含め欧州議会の43カ国と欧州大陸の多くの国々がアメリカ大統領の祈りを見守り、テロの犠牲者を追悼して3分間の黙祷を行った。こうして全ての国々が、「悪に対する巨大な戦い」に彼らを導くと知らせる一人の天啓を受けた原理主義者の主導権を受け入れることを暗黙に認めた。テレビ福音伝道師の政治神秘主義のうわ言は伝染するのだろうか?

この強度の宗教熱は、心理的ショックからも死者への敬意からも説明できない。合衆国はもともとイギリス国王の不寛容から逃れた清教徒が作った神権政治の国だが、だからといってテレビ伝道師が軍事戦略家のかわりを務めるほど信心に凝り固まった国でもない。そもそも、大聖堂の中で宣戦布告を述べた大統領などアメリカの歴史上存在しない。

「世界の人々が私達の苦しみを分かち合い荘厳な宗教的儀式を共に遵守してほしい」というジョ-ジ・W・ブッシュの呼びかけは政教分離の国フランスでも遵守された。ジャック・シラク大統領とリオネル・ジョスパン首相は9月12日に次のような政令に署名している。「2001年9月14日は2001年9月11日にアメリカ合衆国で起きたテロの犠牲者を追悼する国民服喪の日とすることを宣言する。」二人は前日、一群の議員や大臣に付き添われ、パリのアメリカ教会を訪れ、有名な賛歌「ゴッド・ブレス・アメリカ」を合唱していた(この賛歌は第二次世界大戦中にア-ヴィング・バ-リンによって作曲され、一種の非公式な国歌になった)。

大統領令によって祈りが強制されたことは、各地で激しい論争を引き起こした。反対者は、世界的なジェスチャ-は合衆国の数千人の犠牲者が最近の大虐殺事件の全ての犠牲者よりも価値があると信じさせるようだと指摘した。いかなる虐殺もこれほどの追悼を受ける権利を持ったことがない。この論争は、宗教的感情が政治的に利用されることを拒否する人々の反応として理解されるべきだ。紛争をテロリズムに頼らず平和的に解決できると意識するための3分間の黙祷だけで全ての人々の同意を得るのに十分だっただろう—-アメリカ領土内のテロ犠牲者だけのために祈りを捧げるのではなく。これらの儀式は平和への集団的な希求を表現することはなく、未来の復讐を正当化することを目的としていた。

この祈りの瞬間は歴史的な転換点を成す。「国歌が大聖堂の中に鳴り響いた時、合衆国は戦争に突入した」と後にワシントンポストは書いた(War Speech in a Cathederal : A Stedfast Resolve to Prevai,l Dan Balz, Bib Woodward ワシントンポスト2002年1月30日)。この確認を拡大し、世界全体がアメリカの喪に同調して戦争に突入したと言えるだろう。

いかにして全員一致の追悼が組織されたのだろうか?軍事連盟の動員とは異なり、いかなる国際条約もアメリカが喪に服す際に祈る義務を規定しない。しかしながら、世界各国の服喪発令は、NATOやANZUS(太平洋安全保障条約 :米国・オ-ストラリア・ニュ-ジ-ランドの連盟)やOEA(米州機構)の条約を用いるよりも容易で速かった。

注意深く見ると、フランスの法令がジャック・シラクとリオネル・ジョスパンに署名されたのは9月12日、すなわち、ジョ-ジ・W・ブッシュがアメリカの服喪令を発令するよりも前だ。これほど世界規模の作業は世界各国の政府に圧力をかけることができるネットワ-クの発動が必要だ。とりわけ、この政治的措置は政治的な1つの目的を持つ。米国政府は宗教的感情を利用して、テロの犠牲者と同様にテロ公式説をも神聖化したのだ。これ以降は、世界全体で公式説に反対する行為は全て冒涜行為として体験されることになる。

国際的服喪を強制するために用いられた措置は、2001年10月に秘密裡に形式化された(Le Nouvel arsenal de Washington pour l’infosphère, in Intelligence Online 2002年2月14日)。ペンタゴンに戦略的影響局(Office of the Strategic Influence)が作られ、宇宙軍団US Space Forceの元長官シモン・ピ-ト・ウォ-デン将軍の指揮下に置かれた(この戦略的影響局の設立は米軍の長年の思索の結果である。Information Dominance, Martin C. Libicki, Strategic Forum, No132, National Defence University 1997年11月)。この機関は、ブラッド・ワ-ド大佐の国際軍事情報グル-プ(International Military Information Group)を介してラジオ番組ボイス・オブ・アメリカを含む国務省の国際情報プログラムに属する。戦略的影響局は西側の世論と政府の操作に全力で取り組むことになる。 

第七章 全権

9月14日の午前中に、合衆国議会はジョ-ジ・W・ブッシュ大統領に「2001年9月11日に生じたテロを準備した、許可した、実行した、あるいは助けたと大統領が判断した全ての国家、組織あるいは人間に対し、あるいはそのような組織や人間を匿った者に対して、必要かつ適切な軍事力を行使する」ことを許可した。「これらの国家、組織、人間による合衆国への国際テロを防ぐためである。」(上院の第23号共同決議案)

この両院共同決議案は一票を除いて(カリフォルニアの民主党議員バ-バラ・リ-の票)議論もなく全会一致で採択された。この決議文書はブッシュ大統領に非政府テロ組織に対して戦う完全な自由を与えるが、「緊急権」は正確には「戦争権」ではない。ジョージ・W・ブッシュは相変わらず、他国に対する敵対行為を開始する前に議会に報告する義務を持つ(National Emergency Powers, Harold C Relyea, Congressional Research Service, The Library of Congress 2001年9月18日)。

最初の行為を始めるため、ブッシュ大統領は議会に200億ドルの特別予算を要請する。愛国心高揚により両院はこれを二倍にし、5時間の討議の後、400億ドルの予算を採決する(Congress Clears Use of Force, $40 Billions in Emergency Aid, John Lancaster, Helen Dewar ワシントンポスト2001年9月15日)。

さらに、ブッシュ大統領は最大5万人の予備兵の動員を許可する(2001年9月14日の大統領令)。国防長官ドナルド・ラムズフェルドは直ちに35500人を召集する(陸軍1万人、空軍1万3千人、海軍3千人、海兵隊7500人)。前に動員があったのは湾岸戦争の時である。湾岸戦争では大艦隊を集める必要があり、この5倍の数の兵士が召集された。

9月20日、ジョ-ジ・W・ブッシュは全員出席の議会を前に重要な演説を行う。英国首相トニ-・ブレアなど多くの重要人物が出席した。この機会にブッシュはウサマ・ビンラディンとその組織をテロの犯人であると公式に指名し。タリバン政権に最後通牒を突きつけた。「あなたがたの領土に隠れているアルカイダの指導者を全員引き渡しなさい。あなたがたが不正に投獄した、米国人を含む外国人を全員解放しなさい。あなたがたの国で働く記者、外交官、労働者を保護しなさい。アフガニスタンの全てのテロ訓練キャンプを直ちに恒久的に閉鎖し、権限のある当局にテロリスト支援構造に属する全ての人間を引き渡しなさい。この要求は交渉や議論の対象にはならない。タリバンは行動するべきであり、直ちに行動するべきである。彼らはテロリストを引き渡さねばならない。さもなければテロリストと運命を共にするべきだ。」

ブッシュ大統領は特に、国土安全保障局(Office of Homeland Security)の設立を発表した。この機関は省庁の地位を持ちブッシュ大統領の直接の管轄下に置かれた。この新たな機関は「テロリズムに対し我が国を守り可能なすべての攻撃に対応するための全体的国家戦略を管理し、監督し、調整することになる」。大統領は海兵隊出身でペンシルヴァニア知事のトム・リッジをこの機関の責任者に任命する意図を発表した。

この措置の延長として、ブッシュ政権は国防機密を強化するための様々な決定を行った。 

9月12日、テロの翌日に早くも、ラムズフェルド国防長官はペンタゴンでの記者会見で述べている。「情報部の情報を処理し権利を持たない者にその情報を利用させる場合、結果として米国政府がアメリカに対するテロを行い多くのアメリカ人を殺した人々を見つけ処理するチャンスを減らすことになります。第二に、このテロに関する情報がこの種の情報を得る資格のない者に提供された場合、結果として制服を着た男女の生命が危険にさらされることになります。将来の作戦を遂行するのは彼らだからです。」

9月25日、秘密を守るために嘘をつく意志があるかという記者達の質問を受け、ラムズフェルドは、自分自身は別のやり方で行動するだけの巧妙さをもつが、自分の協力者は各自可能な手段で切り抜けるだろうと述べた。

国防長官「当然です。これはウィンストン・チャ-チルの有名な言葉を思い出させます。これを引用しないで下さい。引用されることを望みません。ですから引用しないで下さい。チャ-チルは言いました。真実は、時にはあまりに貴いために嘘という護衛をつける必要があると。彼はノルマンディー上陸の日付と場所について話していました。事実、彼らはノルマンディー上陸の日付も場所も—-ノルマンディー湾にするかベルギ-の北にするか--語らないように努めました。実行の日付についても、ドイツ人の間に混乱を撒きました。パットン指揮下の架空の軍が存在したり、様々な事をしました。これは歴史上の出来事です。わたしはこれを文脈として語ります。(……)わたしはかつてメディアに嘘をついた記憶はありません。嘘をつく意志はありません。それが正当化されるとは思いません。嘘をつかねばならない場合に陥ることを避ける方法は沢山あります。私は嘘はつきません。」

記者「国防省の職員全員についてそれが言えますか?」

国防長官「ご冗談でしょう。」(笑)

10月2日、国防次官ピ-ト・アルドリッジJrは軍の全ての納入業者に書簡を送り(http://www.fas.org/sgp/bush/aldridge.html)、国防機密は彼らの商業活動にも拡大される、なぜなら一見取るに足らない情報も国防省の活動の意図を暴露する可能性があるからだと伝えた。こうして今後は、秘密を守ることが民間人にも強制されるようになった。

10月4日、アルドリッジの手紙を説明するため、空軍の発注担当者ダ-リ-ン・ドルヤンは空軍の全ての納入業者にEメ-ルを送った。メールの中でドルヤンは、アルドジッリが全ての納入業者が交渉中の契約についてもすでに署名され公表された契約についても記者と話をすることを禁止すること、またこの禁止はアメリカ国内だけでなく、軍備に関する展示会や会議に参加するため納入業者が赴く外国の国々でも適用されることを記している。

10月5日、ブッシュ大統領は憲法に違反する形で、複数の政府職員に議会議員に情報を伝えないよう命じた。以下、本書付録の資料から。

国務長官、財務長官、国防長官、司法長官、CIA長官 FBI長官への覚書

議会の情報について

9月11日のアメリカに対するテロ攻撃への報復として、また新たなテロから私達を守るために、私は議会と密接な協力関係を保つつもりです。恒常的行政執行においてわが政府は我々の重要な作戦の進展、軍事面・情報面・警察面の重要な新事実を議会幹部に伝えるつもりです。しかしながら、軍事作戦、情報の源と手段、警察の捜査の安全を守る必要があります。今後、あなたがたの部署は私達の握る情報および計画する活動を議会で発表する際、次の手続きに従って下さい。

1、あなたがただけ、あるいはあなたがたが特別に任命した職員だけが秘密の情報や議会のメンバ-に対し、配慮を要する警察の捜査に関する情報を提示する資格があります。

2、あなたがたやあなたがたが特別に任命した職員が秘密の情報や配慮を要する警察捜査に関する情報を提示することができる議会議員は、下院議長、下院少数派指導者、上院の多数派・少数派指導者、下院上院の情報局検査委員会のメンバ-だけです。

このアプロ-チは、アメリカ人の生命を守り我々の軍事作戦や情報部、警察の成功を保証するため、ある程度秘密を保ち、適切な方法で新事実を議会幹部に伝える配慮をするという我々の共通の目的に役立ちます。今朝、私は上院・下院の幹部にこの政策を伝えました。この政策は私が新たな命令を発するまで有効となります。

                            ジョ-ジ・ブッシュ

10月18日、国防副長官ポール・ウォルフォウィッツは国防省の全ての部署の責任者に注意書きを送り、職員全員にこれを配布するよう求めた。「職務を問わず国防省の全ての職員および国防省と協力する他の機関の職員は、国防省の活動に関する会話において慎重になることが必須である。今後、開かれた空間、公の場所、移動中、あるいはセキュリティで保護されていない電子通信で職務活動に関する会話を行ってはならない。今後、秘密の情報はその目的で設置された場所において、情報を得る理由を持ちセキュリティ上適切な資格をもつ人間に対してのみ語られる。秘密の性格を持たない情報も、慎重を要する結論に結びつく可能性がある場合、同様の保護の対象になるべきである。国防省の任務で用いられる情報の大部分は秘密な性格を持つという理由で公的な領域から保護される。疑いのある場合には国防省内以外で公的な情報を流したり話し合ったりすることを控えること。」

これと同時に、連邦当局はテロに関する調査の秘密を保証するための措置を取った。9月11日、FBIは航空会社にメディアと通信しないよう求めた。しかし、彼らに証言させれば飛行機が満員でなかったことや乗客名簿にハイジャック犯が存在しないことを解明することができただろうに。その晩、FBIは“クラッシュ”の際マンハッタンにいたノデ兄弟(ジュ-ル・ノデとゲデオン・ノデ)を自宅で待ち、記者達がタワ-内とタワ-外の広場で撮った5時間のビデオ録画を没収する。最初の飛行機の“クラッシュ”に相当する6分間だけが兄弟に返された。WTCの崩壊をよりよく理解することを助けたであろうこの資料は封印された。FBIはオディゴにメディアと通信しないよう求めた。警告メッセ-ジの正確な内容とタワ-の人間の数を制限するために取られた措置を知ることは興味深かっただろうに。同様に、軍当局は軍関係者とメディアの接触を完全に禁止した。そのため、記者達は戦闘機の飛行士にも、バ-クスデイルやオファット基地の職員にも質問することができない。アメリカ弁護士協会は損害賠償の訴訟が国家機密公開の機会となることを意識し、犠牲者の家族の名前で訴訟手続きを行おうとする弁護士を除名すると発表した。この禁止措置は6ヶ月間有効とされた。それ以降は専門家の検査はもはや不可能だからだ。

ジョージ・W・ブッシュ大統領は議会の指導者達に個人的に連絡し、9月11日の事件に関する調査委員会を作るようなことをして国の安全を危険にさらさないでほしいと頼んだ。議会議員達は体面を保つと同時にこの事件を忘れるため、両院合同調査委員会を作ることを決定した。この委員会が扱う問題は9.11テロ……ではなくて、新たなテロを防止するため9月11日以降に取られた措置である。

10月10日、国家安全保障担当補佐官コンドリ-ザ・ライスはホワイトハウスに大手テレビ局(ABC,CBS,Fox,Fox News, MSNBC, NBC)のディレクタ-を召喚し、彼らの責任感覚に訴えた。表現の自由の原則は変わりがないが、情報に編集者自身の判断を行使するよう、またアメリカ国民の安全を害する可能性のあるニュ-スの報道を控えるよう求めた。新聞社は完璧にこのメッセ-ジを理解した。ブッシュの方針をあえて批判したCity Sunの編集長ロン・ガッティングとDaily Courierの編集長ダン・ガトリ-は直ちに解雇された。

「元ソ連のPravdaやIzvestiaも政府への隷属においてアメリカのメディアにはかなわないだろう。(……)彼らは客観性の概念を捨て、問題が議論される公的空間を提供する考えさえ捨てた。(……)これはスキャンダルであり、プロパガンダシステムの活動を明らかにする。民主主義社会に不可欠な真面目なメディアの活動はここには見られない」とペンシルヴァニア大学の政治学教師エドワ-ド・ハ-マンは述べている(Les Journalistes à l’épreuve du 11 septembre, in Télérama 2002年1月30日)。

最後に、3週間の審議の後、議会はテロリズムの阻止と回避のために必要な適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化する法(PATRIOT Act愛国者法)を採決した。この例外的な法律は、政府にテロ防止のための効果的な手段を与えるため4年間基本的自由を停止させる。4年という期間がジョ-ジ・W・ブッシュの任期と再選のための選挙活動期間をカバ-することは誰の目にも明らかだ。この法律は広義においてテロリストとその支援者を弾圧する。そのため英国で投獄されているIRAの活動家の家族を支援するための基金は連邦犯罪となる。テロの容疑者とみなされる外国人の拘置期間は1週間に延長される。調査の対象になった容疑者はテロの疑いと関係がない場合も秘密の場所に6ヶ月間拘置され、この期間は司法長官によりその人物が釈放されれば国や社会や人間の安全が脅かされると判断された場合は永久に延長することが可能だ。ただちに1200人の移民が秘密の理由で無期限に拘置された。外国の領事館の職員は自国民への基本的権利の侵害を非難した。ニュ-ヨ-クのパキスタン領事館はこう述べている。「大部分の場合において、私達は拘置された我が国の国民の身元も拘置の場所も知らされていない。人数をやっと教えてもらえる程度だ。(……)当局は彼らに圧力をかけ、自国の領事館や弁護士に連絡する権利を利用しないようにしている。これは許し難いことだ。」

米国愛国者法は、FBIが行政官の監視を受けずに通信傍受をすることを可能にする。この措置はインタ-ネットを介して米国領土を経由する外国人の通信に対して適用される。

10月31日、法務省は被拘置者が自分の弁護士と二人だけで対談する権利を停止した。今後は、これらの会談は傍聴され、記録され、彼らの発言は容疑者の利益に反して利用される。今後は弁護士とその顧客は共に弁護戦略を立てることが完全に不可能になる。

11月13日、ブッシュ大統領は「アルカイダの過去と現在のメンバ-を含む」テロの容疑がかけられた外国人とテロ計画(そのテロが起きなかった場合も含め)に加担した(知らないで加担した場合も含め)人間は連邦法廷では裁かれず、軍事法廷でも裁かれず、軍の委員会によって裁かれるという法令を出す(President’s Military Order : Detention, Treatment, and Trial of Certain Non-Citizens in War Against Terrorism,2001年11月13日 )。その委員会は国防長官によって秘かに構成され、メンバ-自身が規則を作る。彼らの会議は関係者以外立ち入り禁止で、“軍の検事”は被告人とその弁護士に“証拠”を示す義務はない。彼らの決定は三分の二の多数決で採択される(犯罪に関する国際的基準は全員一致)。

同じ日、法務省は中東出身の54人の容疑者を一斉検挙した。ほぼ全員が滞在許可証を持っており、取調べを受ける根拠となる違法行為を全く行っていなかった。

国連決議1373(9月28日)によって作られた対テロ委員会に基づき、国防省は国連での同盟国に同様の法制化を命じた。その日55カ国(フランスも「日常的安全に関する法律」を制定した)が米国愛国者法のいくつかの条項を国内の法に組み入れた。その条項は、各国をテロから守ることではなく、合衆国の警察が世界各国にその活動を拡大することを可能にする目的を持つ。主要な点は、テロに関し拘置期間を延長すること、メディアの自由を制限すること、法的監視なしに治安軍が通信傍受することを許可することだ。英国では反テロ法が欧州人権法に違反する形で、審理なしに外国人容疑者を拘置することを許可する。カナダではテロ防止法が、裁判官の求めで記者が情報源を提示することを義務付け、これに従わない者は即座に投獄される。ドイツでは情報局が法的警察の権利を与えられ、政治的警察に変化する。イタリアでは情報局が国防目的で国内各地で犯罪を犯すことができ、それについて法廷で釈明する義務を持たない。最終的に、国務長官コリン・パウエルがヨーロッパに来て、各国警察が今後FBIに形式抜きで所有する情報を伝達できることを確かめ、Europol支部にFBI支局を設置した。

「9月11日以来、政府は複数の法律を採決させ、以前は考えられなかったような政策、我々の法や価値にそぐわない政策や処置をいくつも採択した」と権威あるNew York Review of Booksは述べている(The Treat to Patriotism, Ronald Dworkin, The New York Review of Books 2002年2月28日)。表現の自由と透明な政治の国アメリカは愛国的神秘主義を高揚させ、国益と、社会の全分野への国防機密拡大という概念の上に閉鎖された。

9月11日の事件の公式説はこれほどの転換を正当化することはできない。敵がアフガニスタンの洞窟に隠れているなら、なぜペンタゴン内部での同僚同士の会話を恐れる必要があるだろうか?一握りのテロリストが武器購入の分散した情報を集め処理してそこからアメリカ軍の計画を推論するということがどうして想像できるだろうか?なぜ国家制度の通常の機能を停止させて民主制の機能に不可欠な情報を一般者立ち入り禁止の場においてさえ議会議員から奪うのだろうか?

さらに、もし公式説すなわちテロが外国人テロリストの犯行であるという説が本当ならば、なぜ議会の調査やメディアの探求を妨害するのだろうか?

これは9月11日よりはるか以前に計画された政治体制の転換ではないのか。CIAは半世紀前から何度も、メディアに国家が関わる事件を語ることを禁止し、国家の事件を暴露する公務員や記者を犯罪者とみなす法律を採決させようと企てた。2000年11月、反動的な上院議員リチャ-ド・シェルビ-(当時の上院情報委員会委員長)は国家機密保護法を採択させようとした。ビル・クリントン大統領がこれに対し拒否権を行使した。リチャ-ド・シェルビ-は2001年8月にも同じ操作を行った。ブッシュ大統領からは良い扱いを受けることを期待したのだ(Reviving a Misconceived Secrecy Bill, New York Times 2001年8月21日 )。テロが起きた時、この法案は審議中だった。そして2001年12月13日の情報に関する法律Intelligence Actに部分的に組み込まれた。直ちに司法長官ジョン・アシュクロフトは秘密情報の漏洩を防止する手段を見直す特別チ-ムを編成した(Task Force to review ways to combat leaks of classified information)。この特別チ-ムは6ヶ月以内に報告を出した。多くの公式ウェブサイトが掃除され、公式発表された情報はそれがテロリストにより秘密の情報を引き出すために利用されるという口実で除去された。司法権、議会の調査委員会、メディア、すなわち反政府的なものは全て除去され、執行部には、外国でCIAと軍によってすでに試されている方法を内政に拡大するための新たな構造が付加された。

ブッシュ大統領が9月20日に議会に発表した国土安全保障局(OHS : Office of Homeland Security)の介入は10月8日になってからである。これは状況に従った措置ではなく、アメリカ国家機関の根本的改革である。今後、政府は国内安全保障と国外安全保障を区別することになる。OHS長官(トム・リッジ)は国家安全保障担当補佐官(コンドリ-ザ・ライス)と対等になる。各々が1つの委員会を司る(Homeland Security Council とNational Security Council)。彼らの権限は様々な領域で一致する。そのためブッシュ大統領は国内安全保障テロ防止担当補佐官を任命し、この人物はコンドリ-ザ・ライスに従属するにも関わらずトム・リッジの指示に従う義務がある。接点をなすこのポストは強権的な経歴を持つウェイン・A・ダウニングに与えられた(Bush Names Army General to NSC Post on Terrorism ,Mike Allen ,Thomas Ricks ワシントンポスト2001年9月30日)。ダウニングは何よりも、ステイ・ビハインド・ネットワ-クの特別作戦指揮官だった。(ステイ・ビハイントは秘密情報機関の中でも最も秘密の機関だ。パリ解放の後、元ナチスのスパイを用いて共産主義の影響力に対抗するために作られた。彼らは西側諸国政府の最も高いレベルまで潜入し、民主的プロセスに細工をするために用いられる。ステイ・ビハインドのイタリア支部はGladioの名で公に知られている。)ダウニングはまた、これらの会議と戦略的影響局(世論と外国政府を操作する任務を持つ機関)との関係を結ぶ。

国内安全保障局は広大な調整権を持ちその権限は時と共に変化しうる。この機関が第二次世界大戦中の戦争動員局(OWM)やラテンアメリカでの軍事作戦を監督する現在の国家薬物取締政策局(ONDCP)と似た役割を演じることになるかどうかはまだ分からない(Homeland Security : the Presidential Coodination Office, Harold Relyea, Congressional Research Service, The Library of Congress 2001年10月10日)。いずれにせよ、これらの措置により民間人の生活が軍人と情報局の手に握られたことは確かだ。

「2001年11月から2002年2月の間に民主主義--独立宣言と合衆国憲法を起草した者達が想像したような民主主義—-は死んだということを歴史家達は記憶に留めるだろう。民主主義が死にゆく間に、アメリカにファシズム神権国家が誕生しつつあった」と偉大な二人の記者ジョン・スタントンとウェイン・マドスンは書いている(The Emergence of the Facist American Theocratic State, John Stanton ,Wayne Madsen,2002年2月10日)。

第三部 帝国が攻撃する

第八章 ビンラディンが犯人だ!

9月11日の朝、CNNがWTCのタワ-の1つが炎上している最初の映像を放映していた時--事故かテロかまだ分かっていなかった時--、ニュ-スチャンネルの解説者達はウサマ・ビンラディンが犯人である可能性を指摘した。この仮定は徐々に、人道的に受け入れられる唯一の説明として認められた。これほど残虐なテロは文明世界とは根本的に無縁で西側諸国への非合理的な憎しみに満ち、手が血にまみれている極悪人の仕業でしかありえない。このきちがい者はすでに特定されていた。アメリカの公敵ナンバ-ワンのウサマ・ビンラディンだ。この噂はまず最初に「一般に正しい情報を持つ筋」や「調査に近い」筋からのメディアへの打ち明け話によって補強された。この噂はコリン・パウエルがビンラディンを容疑者と公的に形容した時に公式となった。この噂はジョ-ジ・W・ブッシュがビンラディンを犯人として指名した時に1つのドグマとなった。現在、この糾弾は公的に補強されていない。しかしアメリカ当局はウサマ・ビンラディンの自白であると彼らには見える一つのビデオを公開し、他の説明は必要がないとみなした。

ウサマ・ビンラディンは1931年にサウジ・ビンラディン・グル-プ(SBG : Saudi Binladin Group)を創立したシェイク・モハマド・ビンラディンの54人の子供の1人である。(ウサマ・ビンラディンの伝記は沢山出版されているが、その多くは厳密な調査というよりはプロパガンダやセンセ-ショナルな効果を狙ったものだ。最も売れている本Bin Laden, the Man who Declared War on America, Yossef Bodansky , Prima Publishing ed 1996やAu nom d’Oussama Ben Laden, Roland Jacquard Jean Picollec ed 2001などは公開されていない情報部の報告すなわち確認不可能な情報に基づいて書かれている。もう少し真面目な本はPBSのFrontlineが行った調査とくにHunting Bin Laden 2001 とInside the Terror Network 2002)

サウジラビア最大のこのホールディング会社の収入の半分は建築・公共工事、他の半分はエンジニアリング、不動産、流通、電気通信、出版事業からもたらされる。SBGはスイスの投資会社SICO(Saudi Investiment Company)を設立した。SICOはサウジアラビア国立商業銀行支部と共に複数の会社を作った。SBGはまたゼネラル・エレクトリック、ノーテル・ネットワ-クス、キャドバリ-・シュウェップスの主要な投資負担者である。SBG工業部門のアメリカ代表はアドナン・カショギ(モハメド・アル=ファイドの元義理の兄)でありSBGの資産はカ-ライル・グル-プに管理されている。1996年までSBG系列会社の資金繰り調整はSBGの顧問でナチス銀行家のフランソワ・ジュヌ-によってローザンヌで行われていた。フランソワ・ジュヌ-はゲッペルスの遺言執行者で、テロリストのカルロスの庇護者でもある。SBGは長い間王国の聖地メディナとメッカの管理を任された唯一の公式な会社だったため、ワッハ-ブ派政権と切り離せない。また、SBGはサウジアラビアの米軍基地建設とクウェ-ト再建の公共工事の大部分を勝ち取った。

シェイク・モハメド・ビンラディンが1968年に事故死した後、長男のサレムが後を継いだ。このサレムも1988年にテキサスで起きた飛行機“事故”で死亡した。それ以降はSBGは創始者の次男バクルに管理される。

1957年に生まれたウサマはキング・アドゥル・アジズ大学で経営・経済の資格を取る。彼は思慮深い実業家として知られるようになる。1979年12月、庇護者のトルキ・アル・ファイサル・アル・サウド(1977-2001年8月までサウジアラビア秘密情報局長官)からアフガニスタンでのCIAの秘密作戦の資金管理を頼まれた。CIAはソ連を失脚させるために10年間で20億ドルを出資した。CIAが行った中でも最も金のかかった作戦だった。サウジアラビアとアメリカの情報局ではイスラム主義者を集め、養成し、武器を与え、彼らの地に存在するソビエト人を倒すためのジハ-ド(聖戦)に参加するよう操作した(Les Dollars de la terreur, les Etats-Unis et les islamistes, Richard Labévière, Grasset ed 1999 )。ウサマ・ビンラディンは、文字通りデ-タベ-スという意味の「アルカイダ」という名の情報ファイルをもとに、この雑多な世界の必需品を管理していた。

ソ連敗北後、アメリカはアフガニスタンの運命への関心を完全に失い、その地を戦争指揮者達とムジャヒディン達の手にゆだねた--アメリカがアラブ・イスラム世界での赤軍に対する戦いに投じたムジャヒンディン達だ。ウサマ・ビンラディンはその際CIAのために働くのをやめて戦士達を自分の利益のために回収したという。1990年に彼はサウジアラビアの君主に、神権分離の背教者サダム・フセインをクウェ-トから追い出すために部下を提供しようと提案したが、ブッシュ(父)大統領、ディック・チェイニー(当時国防長官)とコリン・パウエル(当時統合参謀本部議長)に率いられた連合軍が選ばれたことに気を悪くしたという。

イスラム主義者はまもなく、アメリカ-サウジアラビアと連合するか、それとも敵になるかで、二つの陣営に分かれた。ウサマ・ビンラディンはス-ダン人ハッサン・アル=トゥラビの率いるグループにいた。ヤセル・アラファトも同じグル-プにいた。彼らは共にカルトゥ-ムのアラブイスラム人民会議に参加した。

1992年、アメリカは「希望を回復させるため」国連の委任を受けてソマリアに上陸した(Restore Hope)。元アフガニスタン戦士がGIに発砲した。18人の米兵が軍事作戦中に死亡した。ウサマ・ビンラディンがこの衝突の責任者だと指名された。アメリカ軍は撤退した。集団的想像力の中で、ビンラディンはソビエト人を破った後今度はアメリカ人に勝利した。

ウサマ・ビンラディンはその際サウジアラビア国籍を失い、ス-ダンに住み始める。家族と絶縁し推定3億ドルの遺産を受け取った(ウサマ・ビンラディンの金融投資に関してはBen Laden,La Vérité interdite, Jean-Charles Brisard, Guillaume Dasquié, Denoël ed 2001参照)。彼はこの金を用いてソマリアで複数の銀行、農業食料会社、流通会社を設立した。最初はオマ-ル・ハッサン・アル=バシ-ル、ついでハッサン・アル=トゥラビの支援を受け、ス-ダンに様々な会社を作り、空港や道路を建設し、パイプラインを設置し、アラビアゴム生産の大部分を管轄した。これらの事業の実現にも関わらず、ウサマ・ビンラディンは、彼にホスニ・ムバラク大統領の暗殺陰謀計画の容疑をかけたエジプトの圧力で1993年にス-ダンから追放された。彼はアフガニスタンに再び赴いた。

1996年6月、サウジアラビアのアル・コバ-ル軍事基地に対するテロで19人のアメリカ兵が死亡した。アメリカはウサマ・ビンラディンを犯人とみなした。その応酬として、ウサマは有名な書簡「アラビア半島から多神教者を追放せよ」を書き、アメリカとイスラエルをジハ-ドの対象とする。彼はCIAと共にアフガニスタンで使った論拠を再び用いる。「すべてのイスラム教徒の聖なる義務は占領されたイスラムの領土を解放することだ。」しかし、ソ連によるアフガニスタンの流血の占領とサウジアラビアにおける契約に基づく米軍基地の存在を比較するのは困難だ。百万長者の勧告でイスラム教徒の庶民に反響が得られなかったため、彼は1998年、エジプト人指導者アイマン・アル=ザワヒリと共にユダヤ人と十字軍に対する国際イスラム戦線を作った。

1998年8月7日、タンザニアのダルエスサラムとケニヤのナイロビのアメリカ大使館がテロで破壊され、298人が死亡し、4500人以上が負傷した。アメリカはウサマ・ビンラディンを首謀者とみなした。ビル・クリントン大統領は75発の巡航ミサイルをアフガニスタンのジャララバ-ドとホーストのキャンプとス-ダンのアル=シファ研究所へ発射した。FBIはビンラディンが犯人であるとし、彼の首に5百万ドルの賞金を懸ける。ウサマの資産はすべて凍結された、

2000年10月12日、イエメンのアデンに停泊中のミサイル駆逐艦USSコールが、爆弾の仕掛けられたボ-トによって損害を受けた。17人の水兵が死亡し、残りの39人が負傷した。アメリカはウサマ・ビンラディンを首謀者とみなした。

2001年5月8日、ロナルド・ラムズフェルドはアメリカの公敵ナンバ-ワンは生物化学兵器だけでなく原子爆弾を製造しつつあり、まもなく衛星を打ち上げると発表した。

PBSの番組「フロントライン」のインタビュ-でミルトン・ベアデン(80年代ス-ダンのCIA責任者でアフガニスタンにおけるCIAの作戦の責任者の一人)は疑いを表明する。「極端に単純化して彼(ウサマ)と過去10年の全てのテロを関係付けるのは多くのアメリカ人(の知性)への侮辱である。これでは連盟国も私達を容易に信じないだろう。」1994年に引退したため自由に語る権利を取り戻したミルトン・ベアデンはこう続ける。「ここには沢山のフィクションが存在する。これはウサマ・ビンラディン神話である。演出の一部なのだ。我が国の敵など存在しない。悪の帝国(ソ連)が1991年に沈んで以来、国の敵など存在しない。私達はそれを好むのだろう。私達はこの奇妙な国際テロを好むのだ--(真のテロが)悲劇的に性格を変えている時。」

いずれにせよ、「ショ-は続けられねばならない。」アメリカはウサマ・ビンラディンを2001年9月11日のテロの首謀者とみなした。各国政府の疑いを前に、国務長官コリン・パウエル将軍はNBCの番組Meet the Pressにおいてこう述べる。「私達は司法的情報と情報部の情報を合成するために全力で取り組んでいます。近い将来、彼とテロの関係について私達が握る証拠を明確に描写する一つの資料を発表できるでしょう。」(Meet the Press NBC 2001年9月23日)この資料は何度も予告されたが発表されたことは一度もない。

10月4日、英国首相トニ-・ブレアは庶民院に「2001年9月11日のアメリカにおけるテロリストの残虐行為の責任について」という報告書を提出した。唯一の論拠として以下のことが書かれている。「ウサマ・ビンラディンに率いられたアルカイダ組織以外に9月11日の事件のようなテロを行う動機と能力を持つ者はいない。」

同日、パキスタン外相リアズ・モハメド・カーンはアメリカの持つ“証拠”が「ビンラディンを裁判にかけるのに十分な基盤を提供する」と政府に伝えた。これらの“証拠”は国防機密とされ、一度も公表されたことはない。

11月10日、サンデ-・テレグラフ紙がウサマ・ビンラディンのテロ犯行を認めたビデオカセット(10月20日録画)の存在を明らかにした。「ツインタワ-は正当な標的だった。アメリカ経済の権力の柱だからだ。この事件はあらゆる点で立派だった。破壊されたのはツインタワ-だけではなくこの国の心の柱だ。」ビンラディンはまた米国大統領と英国首相を脅迫しているという。「ブッシュとブレアは力関係しか理解しない。彼らが我々を殺すたびに我々も彼らを殺す。力関係の釣合いが取れるように。」このニュ-スはトニ-・ブレアによって当日確証された。ブレアは翻訳を知ったことを庶民院に伝えた。この謎のビデオカセットはブレア報告書の現在のバージョンに引用されている。しかし、実際はこのインタビュ-はアルジャジラが実現し、2002年1月にCNNが公表したものである。

劇的な出来事が起きた。12月9日、ワシントンポストが一面で新たなビデオカセットの存在を明らかにした。9月11日に公敵ナンバ-ワンの近親者が録画したこのビデオは事件に対するウサマ・ビンラディンの反応を示し、彼が計画の責任者だったことを決定的に証明する。ロイタ-通信は匿名の公職者を引用して、アルカイダの指導者は、ハイジャック犯のほとんどが自爆テロリストではなく犠牲になることを知らなかったと述べていると報じた。ABCのThis Weekで国防副長官ポ-ル・ウォルフォウィッツは述べた。「おぞましいことです。一人の男が無実の人間を大量に殺して誇らしげに喜んでいます。これで彼について我々が知っている全てのことが裏付けられます。新しくもなく、驚くべきことでもありません。これは単に確証です。これで合衆国や他の誰かが犯人だなどと言う陰謀論者の説が黙ることを期待します。」(This Week ABC 2001年12月9日)

このビデオは12月13日ペンタゴンによって放映された。ウサマ・ビンラディンは3つの点に関して公式説に従った“自白”を行っている。私達はこの公式説が事実とは程遠いことを知っている。

「私は飛行機の燃料が引き起こす火事が鋼鉄構造を溶かし、損害を受けた部分、上階だけを崩壊させるだろうということを知っていた。(……)我々は今日の仕事を終え、ラジオをつけた。(……)我々はワシントンのニュ-スをとらえるためチャンネルを変えた。ニュ-スが続いていた。攻撃は最後になって報じられた。記者が、飛行機がWTCに衝突したと報じた。このニュ-スを聞いた時、同胞達は大喜びした。(……)作戦を実行した同胞達が知っていたのは殉教作戦を行うということだけだった。我々は一人一人にアメリカに行くよう命じたが、彼らは作戦のことは一言も知らなかった。しかし彼らは訓練を受けており、我々は作戦について飛行機に乗り込む時点まで明かさなかった。(……)彼らは最初の飛行機が建物に衝突した時、狂喜した。私は彼らに「辛抱していろ」と言った。(……)第一の飛行機と第二の飛行機の衝突の間隔は20分だった、第一の衝突とペンタゴンへの飛行機衝突までの間隔は1時間だった。」

ビンラディンは燃焼によるタワ-崩壊という作り話、自爆テロリストチ-ムという作り話、ペンタゴンに飛行機が衝突(“クラッシュ”)したという作り話を信用させようとするだけでなく、自明の事実を否定する配慮さえ行う。ビデオの最後に彼の仲間がこう注釈する。「アメリカ人達は恐怖に陥った。ク-デタ-だと思ったのだ。」アメリカ公敵ナンバ-ワンがそう言うのならば・・・

再犯者ウサマ・ビンラディンが9月11日のテロにおいて有罪であることは疑いがないということになる。彼は存在しなかった行為さえも自白したのだから。しかし、ビンラディンは本当にCIAと手を切り、アメリカの敵になっていたのだろうか?

1987年から1998年まで、アルカイダ戦士の養成は、米軍に編入したエジプト人士官アリ・モハメドによって監督されていた。モハメドはジョン・F・ケネディ特殊戦センタ-・アンド・スク-ルで教え、ステイ・ビハインドという最も秘密の圧力ネットワ-クのメンバ-とアメリカ特殊軍士官を養成していた(The Making of a Militant, Benjamin Weiser and James Risenニュ-ヨ-クタイムズ1998年12月1日)。スパイ同士を監視させるアメリカの秘密情報局の安全規則を知る者にとって、アリ・モハメドが一方で米軍基地で、他方でス-ダンとアフガニスタンのアルカイダ基地で働きながら、直ちにその正体を暴かれないということは考えられない。メディアで報道されたアリ・モハメドの逮捕も、ステイ・ビハインドがアルカイダ戦士を養成していたこと、すなわちウサマ・ビンラディンが1998年までCIAのために働いていたことを隠すのに十分ではない。

そもそも、ウサマ・ビンラディン伝説がCIAが作り上げた隠れ蓑であることは明らかだ。彼らはそれを用いて、ビンラディンが20人ほどの戦士を使って世界最大の軍隊をソマリアから撤退させたことを信じさせようとしたのだ。

実際は、CIAは過去にソビエト人に対してそうしたように、ロシアの影響力に対してもウサマ・ビンラディンの仕事に頼り続けた。勝利するチ-ムを変えるものではない。ニュ-ヨ-クタイムズ紙が証明するように、アラブ人部隊は2001年まで、チェチェンでも使われた。いわゆる“ビンラディンのアメリカへの敵意”が、これらの陰謀において米政府が自己の責任を否定することを可能にした。

1998年にもCIAとビンラディンの関係は切れなかった。重病を患ったビンラディンは2001年の7月4日から14日までドバイ(アラブ首長国)のアメリカン病院で治療を受けた。入院中、家族のメンバ-やサウジアラビアと首長国の重要人物が彼を訪問した。「彼の滞在中に当地のCIA代表者が主要なエレベ-タ-を使ってウサマ・ビンラディンの病室に向かうのが目撃されている」とフィガロ紙は書いている(La CIA a rencontré Ben Laden à Dubaï en juillet, Alexandra Richard フィガロ2001年10月31日)。

「9月11日のテロの前日、ウサマ・ビンラディンはパキスタンにいた。(……)彼は秘かにラワルピンディの軍病院に入れられ、透析治療を受けた」とCBS特派員は報じている(Hopital Warker : I Saw Osama Barry Petersen CBS 2002年1月29日)。

アメリカとイスラエルに対してジハ-ドを開始した男、FBIがその首に500万ドルの賞金を懸けた男、訓練キャンプが巡航ミサイルで爆撃されたその男がドバイのアメリカン病院で治療を受けCIAの責任者と語り合い、ラワルピンディにおいてパキスタン軍の保護下で透析を受けた。

偽装行為はビンラディンの近親者やアルカイダの戦士にも関わる。例えば、アメリカの公式説によればスーダンのアルシファ研究所は化学兵器・大量破壊兵器の製造に用いられていた。そのために1998年にアメリカ空軍に爆撃されたのだ。しかし、廃墟を視察した世界のオブザ-バ-達はこの工場が作っていたのはせいぜいアスピリン程度であったことを確認した。この工場の所有者はウサマ・ビンラディンとサラ・イドリスだった。CIAはサラ・イドリスにエジプトでの化学兵器製造共犯とイスラム主義ジハ-ドへの資金提供の容疑をかけた。CIAは彼の資産を凍結したが1999年5月、秘かにこの措置を解消した。“テロリスト”サラ・イドリスは今日、オフショア会社Global Security Systemsの仲介でIES Digital Systemsの75%とProtecの20%を所有する。IES Digital Systemsは今日イギリスの政府・軍施設の監視カメラシステムを担当する。コックス男爵夫人がこの事実を庶民院に明かした。Protecはイギリスにある11の原子力発電所の警備を担当する。

モハメド・アッタに関しては、FBIは彼がアルカイダのスパイであり、9月11日の突撃隊のリ-ダ-であり、彼の銀行口座が作戦の資金に使われたとする。しかしアッタは実際にはパキスタン秘密情報局(ISI)のスパイだった。ISIは常にCIAの支部と見なされてきた(Pakistan’s Inter-Service Intelligence(ISI), B Raman, South Asia Analysis Group, Paper287, 2001年8月1日)。2001年7月、ISI長官のア-メド・マフム-ドがアメリカのモハメド・アッタの銀行口座に10万ドルを送金したことがタイムズ・オブ・インディア紙に報じられている(India Helped FBI trace ISI-Terrorist Link, Times of India 10月9日)。この暴露もアメリカではいかなる疑問も引き起こさなかった。アメリカ側はただマフム-ド将軍に自分の後継者を任命した上で退職するように求めた。

アメリカ側がビンラディンに対して取った措置も納得しがたい。アルカイダの訓練キャンプとアルシファの工場への75発の巡航ミサイル発射は21人のイスラム主義者を死亡させた。手段に関しても、ナイロビとダルエスサラムの犠牲者数298人にも比例しないように見える。

「冷戦時代以来、ワシントンはウサマ・ビンラディンを重要指名手配犯にのリストに載せながら、同時に意識的に彼を支援した。ムジャヒディンはアメリカの利益のためバルカン半島や元ソ連諸国の軍事蜂起に用いられる一方で、FBIはアメリカでそれを行い、対テロ戦争を行う任務を与えられた。これらの行為は矛盾しているだけでなく市民に対する欺瞞政策である。なぜならCIAはソ連に対するアフガニスタン戦争以来秘密作戦を介して国際テロリズムを支援しているからだ」とオタワ大学のミシェル・チョスドフスキ-教授は書いている(Qui est Oussama Ben Laden? Michel Chossudovsky, L’Autre Journal 2001年10月)。

ウサマ・ビンラディンはアメリカ合衆国の敵ではなく、アメリカ合衆国のスパイである。他方で、彼が家族と縁を切ったことは一度もなく、彼の家族はブッシュ家の主要な商業・実業提携者である(Les liens financiers occultes des Bush et des Ben Laden, in Notes d’ informations du Réseau Voltaire 2001年10月21日 )。

サウジ・ビンラディン・グル-プの資産がカ-ライル・グル-プに管理されていることはすでに述べた。

1987年に作られたカ-ライル・グル-プは現在120億ドルのポ-トフォリオを管理している。キャドバリ-・シュウェップスの瓶詰めを行うセブンアップ、Federal Data Corporation(連邦航空局の民間航空交通監視システム配備を担当)、ユナイテッドディフェンスインダストリ-ズ(アメリカ、トルコ、サウジアラビアの軍の主要な装備品を担当)の主要な出資者である。カ-ライル・グル-プはグル-プの管轄化にあるこれらの会社を通じてアメリカで11番目に大きな軍備会社となっている。

1990年にカ-ライル・グル-プは資本金強奪事件で起訴された。共和党ロビイストのウェイン・バ-マンがアメリカの年金基金をゆすり取り、ブッシュの選挙運動に用いた。基金の1つがコネチカットでの公的契約を得るためカ-ライル・グル-プに百万ドルを支出することに同意していた。この基金管理責任者は元CIA副長官でその後国防長官を務めたフランク・C・カールッチである。ジェームズ・A・ベーカ-3世(レーガン大統領の首席補佐官ついで財務長官、ジョージ・ブッシュ父大統領政権下で国務長官)とリチャ-ド・ダ-マン(元財務長官)が彼を補佐する。カ-ライル・グル-プの外国代表はジョン・メ-ジャ-(元英国首相)とジョージ・ブッシュ父(元CIA長官ついで米国大統領)だ。カーライル・グル-プの他の幹部には、ハリド・ビン・マフズの代理人サミ・ムバラク・バールマとタラト・オトマンがいる。この2人の人物は現在(2002年)のアメリカ大統領と直接関係を持つ。

ジョ-ジ・W・ブッシュはハ-ケン・エナジ-・コ-ポレ-ション(元の名前はArbusto Energy)の社長としての成功で個人的財産を得た。テキサスのこの小さな石油会社はジョ-ジ・ブッシュ父大統領が交渉した米クウェ-ト間の契約のレトロコミッションとしてバ-レ-ンの石油採掘に関する権利委譲を勝ち取った。これは当然ながら非合法の取引である。

ハリド・ビン・マフズはハ-ケンの株を11,5パーセント保有する。彼の株は代理人の1人アブダラ・タハ・バクシュが所持した。タラト・オトマンは経営担当であり、ウサマ・ビンラディンの兄サレムのハーケンでの代表者は彼のアメリカの代理人ジェームズ・R・バスである。

この小世界(ブッシュ一族、彼らの政治的受益者、彼らの金融提携者、そして不可欠のCIA)が裏工作を行うのはこれが初めてではない。彼らは90年代の巨大な金融スキャンダルの中心に存在する。BCCIの倒産である(The BCCI Affair, report by Sen. Joseph Kerry and Sen. Hank Brown to the Senate Committee on Foreign Relations, Subcommittee on Terrorism, Narcotics and International Operations 1992年9月30日)。

国際商業信用銀行(BCCI)は73カ国に存在する米パキスタン銀行で、三つの大家族に保有されている。ゴカル家(パキスタン)、ビン・マフズ家(サウジアラビア)、ガイス・ファラオン家(アブダビ)である(ガイス・ファラオンのフランス業務担当ファリド・ジュフリは2001年10月にフィガロ紙とルモンド紙の2ページの広告欄を購入した。この広報作戦はファラオンとウサマ・ビンラディンの関係を否認するために行われた。しかしファラオンはBCCI事件以来FBIとIRSに手配されている。ファラオンはまたアルゼンチンでの武器密輸事件への関与が疑われている)。

BCCIはロナルド・レ-ガンがイラン政府を買収するための用いられた。テヘランのアメリカ大使館の人質の解放を遅らせジミ-・カ-タ-大統領の失脚を工作するためだ(October Surpriseと呼ばれる作戦)。さらに、元CIA長官かつ副大統領のジョ-ジ・ブッシュ父に促され、レーガンはBCCIを再び利用しサウジアラビアの寄付金をニカラグアのコントラに送り、CIAの金をアフガニスタンのムジャヒディンに送った。BCCIはシリア人武器商サルキス・サルケナリアンの武器密輸事件、アメリカのキ-ティング・スキャンダルやディ-ラ-のマーク・リッチの事件、アブ・ニダルのグル-プの資金融通などに関わっている。最終的にこの銀行はメデジン・カルテルのマネ-ロンダリングを行っていたことが証明されて倒産した。百万人の預金者から金を巻き上げ、閉鎖された。

BCCIがCIAによって設立されてはいないとしても、CIAに操作されていたことは驚くべきことではない。実業法律家とウォ-ルストリ-トのブロ-カ-によるOSSの設立以来、秘密情報局には長い銀行の伝統がある。2人のCIA長官リチャ-ド・ヘルムズとウイリアム・ケイシ-はBCCIに勤めたことがある。CIAの名高い諜報員アドナン・カショギ(サウジ・ビンラディン・グル-プの米国代表)とManucher Ghobanifar(イランゲ-トの主要な武器密輸人)も同様だ。ファイサル王の義理の兄で1977年まで秘密情報局長官を務めたカマル・アドハム、1977年から2001年8月まで情報局長官を務めウサマ・ビンラディンの後見人であるトルキ・アル・ファイサル・アル・サウド、サウジアラビア秘密情報局副長官アブダル・ラウフ・ハリルについては言うまでもない。

BCCIはフランスでも秘密の役割を演じたようだ。人質解放と引き換えに行われたパキスタンへの英米の核技術輸送を隠すために使われた。シャルル・パスクワと親しい実業家ドミニク・サンティニがフランスでのエルフ事件での起訴と別に、BCCI内での役割に関して外国で告訴された。銀行倒産の3年後、幹部達はサワリ2という名の契約の仲介者を演じ、エドワール・バラデュ-ルの選挙運動資金となるレトロコミッションシステムを作った。サウジアラビアの短艇の売却に疑いを持ったジャック・シラクは、大統領職に就くと直ちにエドワ-ル・バラデュ-ル政権下の国防大臣フランソワ・レオタ-ルの傍聴を開始した。

BCCIはSICO(サウジ・ビンラディン・グル-プ系列のスイスの投資銀行、最初の名はCYGNET)と密接に協力した。SICOの経営者の1人はウサマ・ビンラディンの兄弟の1人サレムである。

BCCI倒産の責任者とされたハリド・ビン・マフズは1992年にアメリカで告訴されたが、1995年に銀行の債権者と2億4500万ドルを取引して責任を取り除くことに成功した。

アメリカの多くの公職者が主張するようにビンラディン家がウサマとの関係を続け彼の政治活動に資金提供していたのが本当なら、サウジ・ビンラディン・グル-プの投資管理を行うカ-ライル・グル-プは必然的にインサイダ-取引に関与していたことになる。ジョ-ジ・ブッシュ父は2001年9月11日の証券操作で幸福な受益者となった人間の1人だということになる。FBIとIOSCOが金融面での調査を停止したのも尤もである。

第九章 ビジネスは続く

2001年10月7日、ジョ-ジ・W・ブッシュはテレビで荘厳な発言をする。演説はホワイトハウスの大統領執務室ではなく、条約の広間から放映される。戦争が始まったのだ。

「私の命令でアメリカ合衆国の軍隊はアフガニスタンのアルカイダのテロリストキャンプとタリバン政権の軍事施設攻撃を開始しました。注意深く標的を定めたこれらの攻撃はアフガニスタンが作戦の基地として使われることを防ぐためであり、タリバン政権の軍事力への攻撃も行われます。私達の忠実な友、英国もこの作戦に参加します。汰の友好国、カナダ、オ-ストラリア、ドイツ、フランスは作戦が展開するにつれ徐々に軍事力を提供する約束をしました。近東、アフリカ、欧州、アジアの40以上の国が一時寄港・着陸を許可しました。多くの国が自国の情報局の情報を私達と共有しました。私達は世界の集団的な意志に支えられています。

2週間前、わたしはタリバンの指導者に複数の明確な特別の要請を伝えました。テロリストの訓練キャンプを閉鎖すること。アルカイダ組織の指導者を引き渡すこと。不正に投獄されている米国人を含む外国人の解放。彼らはこれらの要請のうちどれ一つ満足させませんでした。いま、タリバンはその代価を払うことになります。

(……)アフガニスタンの抑圧された人々はこの機会に合衆国とその連盟国の寛大さを確認するでしょう。私達は軍事標的を攻撃しますが、アフガニスタンで飢えに苦しんでいる男女と子供へ食糧、医薬品、必需品を投下します。合衆国はアフガン人の友好国であり、世界の10億人のイスラム教徒の友です。合衆国はテロリストや、偉大な宗教を冒涜し宗教の名のもとに殺人を犯す野蛮な犯罪者を支援する人々の敵です。

(……)私達はこの任務に志願したわけではありません。しかし、この任務を遂行するでしょう。」

ロンドンのダウニング街10番地でトニ-・ブレアはイギリス人に語りかける。彼は陛下の軍隊がアメリカ人の軍と共に戦っていることを認める。

カブ-ルに砲弾の雨が降り注ぐ一方で、カタ-ルのニュ-スチャンネル、アルジャジラはすでに録音してあったウサマ・ビンラディンの返答を放送する(Texte de la déclaration d’Oussama Ben Laden, dépêche AFP 2001年10月7日)。

「今、アメリカはアッラ-により最も弱い点を攻撃された。アッラ-はアメリカの最も威信ある建物を破壊された。そのことをアッラ-に感謝する。アメリカは北から南まで、東から西まで恐怖に満ちている。これについてアッラ-に感謝する。アッラ-はアメリカを破壊した一群のイスラム教徒、一群の前衛を導いた。彼らの地位を上げ、天国に受け入れられるようアッラ-に嘆願する。

(……)起こった事の後、そしてこの世の不信心者の指導者ブッシュを先頭としたアメリカ人高官の発言の後、また彼らが兵士と馬を動員しイスラム教国を自称する国々を我々に敵対させた後、(……)彼らは宗教に執着しこの世に関心を持たない一つの集団に対して戦いに出た。彼らはイスラム教に対して戦い、テロを口実に人々を侵略するために出発した。

(……)これらの出来事は世界全体を二つの部分に分けた。信仰を持ち偽善を持たない者たちと、不信心者達だ(神は私を彼らから守り給う)。すべてのイスラム教徒は自分の宗教を守るために立ち上がるべきだ。信仰と変化の風がマホメットの半島における不正を無に帰すために吹いたからだ。

アメリカに告げる。アッラ-にかけて、パレスチナが安全を得るまでは、また聖地から西側の無神論者の軍が全て去るまでは、アメリカが安全を得ることは決してないだろう。」

メディアで報じられたブッシュ大統領とCIAの諜報員ビンラディンの対話がアフガニスタン戦争が9.11テロの報復であることを世界に対して確証したいま、ビジネスを始めることができる。

ソ連崩壊とアジア諸国の独立が“グレート・ゲ-ム”を開始させた(Far Eastern Economic ReviewにおけるAhmed Rashidの記事が元になって、グレート・ゲ-ムという言葉が使われるようになった。 The New Great Game in Muslim Central Asia,M. Ehsan Ahrari, McNair Paper no47, National Defense University 1996)。19世紀にラドヤ-ド・キプリングが作ったこの表現は、この地域で大帝国同士が直接対決をできるだけ避けつつ影響力を競い合って展開した戦いを指す。

この地域には石油とガスが大量に埋蔵している。山岳地帯には宝石がある。さらにここではケシが栽培されている(Taliban and the Drug Trade, Richard F Perl, Congressionnal Research Service, The Library of Congress 2001年10月5日、Central Asia : Drug and Conflict, International Crisis Group )。

大統領職に就いたジョ-ジ・W・ブッシュは石油ロビ-の大受任者達で政府を形成した。国家安全保障担当補佐官のコンドリ-ザ・ライスはシェブロン・テキサコの元重役であり(彼女は安保理での任命までシェブロンの取締役および株主だった。シェブロンはジョン・D・ロックフェラ-の会社スタンダ-ドオイル・オブ・カリフォルニアの新たな名前である)、内務長官ゲイル・ノートンはBPアモコとサウジアラビアの会社デルタ・オイルの利益を代表する。2001年1月29日には副大統領ディック・チェイニ-(元ハリバ-ドン社長--ハリバ-トンは世界一の石油生産設備会社)がエネルギ-政策策定グル-プ(NEPD)を設立した。その会議は警備が極めて厳重で、参加者の名は国家機密であり、討論を記録することは禁止される。NEPDに関する全てが謎に包まれているので、ワシントンポストはこれを「一種の秘密結社」と形容する(Energy Task Force Works in Secret, Dana Milbank and Eric Pianin ワシントンポスト2001年4月16日)。

エネルギ-分野で世界一の仲介会社エンロンの倒産の結果を知らない注釈者達は、NEPDの主要な目的はカスピ海の炭化水素資源の採掘であると考える。問題はロシアとイランと交渉をせずにいかにして石油とガスを輸送するか。アゼルバイジャン、グルジア、トルコを通るカスピ海と地中海を結ぶパイプラインが建設される予定だ(BTC計画)。今のところ、カスピ海と黒海を結ぶ別のパイプラインが実現しているが、ロシアを通るので十分の一税を払わねばならない。このパイプラインはテンギスとノヴォロシ-スクを結ぶ。2001年11月27日に操業開始された。最も都合のよい第三のパイプラインはカスピ海とインド洋を結ぶ(UNOCALの計画で、デルタオイルが援助)。(UNOCALは計画実行のため、デルタ・オイル、ガスプロム、トルクメノガスと共にセントラル・アジア・ガス(CentGas)という協力機構を作った。アルゼンチンのブリダスが予期せぬ競争相手として登場した。さらにUNOCALはデルタオイル、トルクメニスタン政府、インドネシア石油協会、日本の企業である伊藤忠、韓国企業ヒュンダイ、パキスタンのクレッセントグル-プと共に中央アジア石油パイプライン計画を作った。)問題は、このパイプラインがパキスタンだけでなく、ソ連崩壊後いかなる形態の国家も消失し内乱状態のアフガニスタンを通ることだ。1997年12月、UNOCALはタリバンの無理解に直面し、計画中断を余儀なくされた。それ以降、会社の副社長ジョン・J・マレスカがアフガニスタンのアメリカ大使に任命されたにも関わらず、再開の試みは全て失敗した。

対話を再開するため、国務長官コリン・パウエルは2001年5月にケシ栽培者の転職のため4千3百万ドルの補助金をタリバン政権に提供する。インドがオブザ-バ-国を務めたジェノバでのG8サミットで同意を得て複数の派閥の交渉がベルリンで開かれ、アメリカ人、イギリス人、パキスタン人、アフガン人、ロシア人が集まった。ドイツは国連のアフガニスタン監視団の議長国なのでホスト国を務めた。しかしいかなるアフガン人と話し合うべきか?国際的に認められているがアフガニスタンの大部分を支配しないラバニ大統領か、中世的なセクトである“タリバン”が統治するイスラム首長国か?国連安保理決議に違反する形でタリバンを招くことになった。本物のビザを手にたタリバン高位者達は、ドイツ旅行を利用してハンブルクで説教や募金活動を行った。

“タリバン”は閉鎖的な信心会で、スンニ派のセクトであり、原始イスラム教への回帰を説く。指導者は対ソ連戦争の退役軍人で、全員戦傷を負っている。戦争のムッラ-、オマルの権威を認める。オマルは生まれてから一度も旅行をしたことがなく、自国の三分の一さえ知らない。ソ連撤退後の混乱の中でタリバンは民族的連帯を利用して窮地を切り抜けた。パキスタン秘密情報局の大多数の指導者と同様、彼らはパシュトゥ-ン人である。

ムッラ-・オマルは信者の司令官を自称し、首長国を作った。この首長国はパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦だけに認められている。彼らは国際関係に関する知識がないので、ソ連に対して共に戦ったアメリカ人の友人にそれを任せた。国連では1966年-1973年のCIA長官リチャ-ド・ヘルムズの姪レイラ・ヘルムズが彼らを代表する。内政面では、タリバンは民衆に鉄の規律を課し、女性を差別し不信心的な行為を禁止した。長い間ケシの栽培を許していた彼らはこれを禁じ、一部の農民の収入源を奪った。このセクトはウサマ・ビンラディンに領土の一部(広大な土地)を委譲した。

外交的な習慣を持たない“タリバン”はパイプライン通過と引き換えに国際的認定を交渉しようとした。しかし、国連がアフガニスタンに他の政府--脆弱なラバニ政権--を認める以上、これが問題外であると知り、交渉を打ち切った。パキスタンの外交官ニアズ・ナイクによればアメリカの代表団は威嚇的な態度に出たという。そして7月半ば、この争いを武力で解決すると予告した。

アメリカはアフガン諸派の主要な指導者を--ムッラ-・オマルであろうと、反米主義で有名な司令官マス-ドであろうと--除去し、その代わりに傀儡政権を建てる予定である。この傀儡政権はロ-マに亡命して余生を送っている忘れられたザヘル・シャ-元国王の塗油から外見上の正当性を得る。

7月半ば、列強はこの計画に賛成を表明した。2001年7月17日ユベ-ル・ヴェドリン(仏外相)とフランチェスク・ヴェンドレル(国連アフガニスタン問題特別ミッション代表)の対談後の声明にはこう書かれている。「二人の責任者は好ましい展開、とくに国際社会がアフガン社会の代表を統合しようとする王の努力を支持することが可能になる手段を共に検討した。また、パキスタンとの対話の強化の有用性にも触れた。さらに、紛争が終結した後、アフガニスタンの再建に必要な点について当然熟考しなくてはならない。」(2001年7月17日仏外務省スポ-クスマン)

そうなのだ。7月にはやくも、廃位された王ザヘル・シャ-をアフガニスタンの王にすることが話し合われていたのだ。そして「紛争」と国の「再建」に関する議論が平行して行われていたのだ!

ロンドンで、さらにジュネ-ブで、Business Humanitarian Forum(事業人道フォ-ラム)という隠れ蓑を用いて交渉は続く(http://www.bhforum.ch/)。このフォ-ラムにはUNOCALが多額の投資を行った。目的と参加者は異なる。カスピ海の石油資源に多くを期待している日本も参加した。ヴェドリン、ヴェンドレル両氏が予見した通り、このフォ-ラムでは平和ではなく、戦争と再建が準備された。

嵐の前、英米の過剰な圧力を恐れて、パキスタンは新たな同盟者を探す。そして中国代表団をイスラマバ-ドに招き軍事支援と引き換えにインド洋への道を開くことを約束する。英米はこれに腹を立て、予定を早め、グレ-ト・ゲ-ムを中国が乱しに来る前に攻撃に移る決定をした(Benoît Balifano, Pierre Trouillet, Guilhem Rondotによるニアズ・ナイクのインタビュ- ITV Dokumenta共同制作2001年10月)。オマ-ン海はフォ-クランド紛争以来の最大のイギリス艦隊展開の舞台となる。一方、NATOはエジプトに4万人の兵士を送った。9月9日、イスラム戦線のカリスマ的指導者で極めて反米的な指揮者マス-ドが暗殺される(シャ-・マス-ドの暗殺は数日間秘密にされ、アメリカでのテロの後明かされた。そしてウサマ・ビンラディンの犯罪とされた、しかし彼の死に関する現在の説は記者フランソワ-ズ・コ-スが直後に集めた証言と矛盾する。暗殺直後、シャ-・マス-ドの周囲の人々はパキスタン秘密情報局による暗殺だと考えた)。9月11日のテロは古典的な植民地遠征を正当な軍事行為に偽装することを可能にした。

この作戦はInfinite Justiceと呼ばれるはずだった。文字通り“限りない正義”、“無限の正義”という意味だ。しかしイスラム世界における宣伝効果は嘆かわしいものだった。そのためEnduring Freedom(不変な自由)と呼ぶことにした。この作戦は、状況に合わせて作られた136カ国の同盟Global Coalitionに支持される(The Global War on Terrorism, The First 100 Days Coalition Information Centers)。第一次アフガニスタン戦争(1979-1989)の際のソ連の地上での停滞を記憶していたアメリカは、GIを現地に送るのを控え、戦争指導者を高価で買ってタリバンと戦わせるために派遣するほうを選んだ。この方法では当然、国連の禁輸に違反する形で、敵対する派閥を武装させることが前提になる。この事態を前に、ロシアは故マス-ドのイスラム戦線に大量の武器を与えた。イランはシ-ア派のハザ-ル人に武器を与えた。アメリカ空軍は反タリバン軍を助けるため、また時にはその動きを抑えるため、標的空爆を行うだけにとどめた。なぜなら、異なる派閥の戦士が戦う目的は、グロ-バル・コアリションが提示する目的(ウサマ・ビンラディン逮捕)とも非公式な石油への野心とも全く関係がないからだ。

それで英米は戦略を変えた。伝統的な絨毯爆撃に戻り邪魔者を消す。“タリバン”は自己の領土で独裁制を保つことができず、分散し孤立化する。同時に国際的宣伝のため「北の同盟」と名を変えたイスラム戦線が“タリバン”の乱れた戦線に突入する。

アメリカ空軍は逃亡者達をしつこく攻撃する。“タリバン”はカンダハルに再結集しようとする。一方で勝利者は複数の虐殺行為に及ぶ。特にマザ-リシャリ-フで、ドスタム将軍指揮下で虐殺が行われた。最終的に千人から2千人の狂信者—-“タリバン”とアルカイダのメンバ-を含め—-が鋼鉄の洪水の下、トラボラの山中に隠れ、パキスタンの友人を通じて降伏を交渉する。英米空軍は合計4700回出陣し、12000発の爆弾を投下し、1万人以上の戦士を殺害し、千人以上の民間人を「間接的に」殺害した(Operation Enduring Freedom : Why a Higher Rate of Civilian Bombing Casualities, Projet on Defense Alternatives, Briefing Report #11、2002年1月18日)。軍事的に事態は悪化し、アメリカ空軍は“外科手術的な攻撃”の理論を捨て、山に散らばった最後の戦士を殺害するため大量破壊兵器BLU-82(マーガレット刈り機と呼ばれる)を用いた(BLU-82は被害の度合いが大きすぎるため最初は戦闘用ではなく工兵用だった。ヴェトナムではジャングルの木を切ってヘリ着陸用の空き地を作るのに使われた)。

戦争は国連安保理の決議1378で終結する。決議はドイツのボンにおける協議の枠組みを決めた。ボンではアフガニスタンの異なる党派が政府樹立に合意する(Strange Victory : a Critical Appraisal of Operation Enduring Freedom and Afghanistan War, Carl Conetta, Project on Defense Alternatives, monograph#6,2002年1月30日)。円卓会議が設置した全体政府は元国王ザヘル・シャ-の統治を求める。予定通り元国王は辞退し、ハミド・カルザイが首相になる。対ソ連戦争中カルザイは当時のCIA長官ウイリアム・ケーシ-と個人的に親しくなった。その後アメリカに移住しブッシュ家の友人となりUNOCALの支社に雇われた(Afghanistan, the Taliban and the Bush Oil Team, Wayne Madsen, Democrats.Com 2002年1月23日)。その残虐さでチンギスハンというあだ名を持ち20年前から犯罪者と見なされているアブドル・ラシド・ドスタム将軍がグロ-バル・コアリション加入に間に合う。彼は幸運なことに戦争犯罪で追及されることもなく、新政府に加わる。

安保理内で「不変の自由」作戦を指揮していたのはザルマイ・ハリルザドだ。元国王ザヘル・シャ-の補佐官の息子であり、アメリカのシカゴ大学で学業を修めた。CIAと共にソ連に対して戦った後、米国籍を得てロナルド・レ-ガン政権下で国務省補佐官となった。ブッシュ父大統領の下では国防副長官に任命され、イラクに対する砂漠の嵐作戦で重要な役割を演じた。クリントン時代はランド・コ-ポレ-ションとUNOCALのために働いた。“タリバン”との交渉中に彼はワシントンポストで“タリバン”を弁護して「タリバンはイランの原理主義が教える反米主義を実践しない」と述べている。石油交渉断絶後は意見を変え、9月11日以降のブッシュ政権の模範的専門家となる。戦争後はアフガニスタン問題の特別代表に任命され、あの望まれたパイプライン建設の監督を任せられる。

世界のメディアがタリバンとアルカイダの施設の名残りを見に来る。メディアはみすぼらしい廃屋に対ソ連時代の武器が積まれているのを見る。化学・生物兵器工場や原爆製造所を見出した記者は1人もいない。ドナルド・ラムズフェルドが述べた衛星基地など、ますます見当たらない。

世界最大の軍隊は、彼らが捕えに来た公敵ナンバ-ワンを見つけることができない。ムッラー・オマルはモ-タ-バイクでパキスタンに逃げた。

ビジネスは続く。アメリカ市場にむけたケシ栽培がついに開花する(Opium Farmers Rejoice at Defeat of the Taliban, Richard Lloyd Parry in The Independent 2001年11月21日)。2002年12月9日、ハミド・カルザイはパキスタンのムシャラフ大統領と中央アジアのパイプライン建設のための合意を結ぶ(Musharraf, Karzai Agree Major Oil Pipeline in Co-operation Pact, Irish Times 2002年2月9日)。

第十章 秘密作戦

レオナルド・ウォングが米軍戦略研究所のために書いた文章「いかにして軍事行為への公衆の支持を維持するか」の中にこうある。「軍事活動への公衆の支持はパ-ルハ-バ-攻撃の後のレベルに比較できる。アメリカ人は現在、彼らが適切な軍事活動を信じ、戦争の延長を支持し、戦争のマイナスな影響を耐え忍ぶ意志を表明している。賛成する者が多い場合も、アメリカ人は突然意見を変えることがある。(……)通常の生活に戻ると軍事的支持も下がるだろう--軍が対テロ戦争で進歩を見せ、軍と国民の関係を維持し、目に見えない形でも国内の安全を保証しない限りは。」言葉を変えれば、世論はサスペンスが続く限りアメリカの対テロ政策に賛成する。

「不変の自由」作戦は2001年10月7日に始まった。武器の音は中央アジアへ遠ざかる。力関係を考えれば、連合軍の勝利は前もって分かっている。アメリカ国民の関心は弱まり始める。アルカイダの隠れ家が攻撃され、ウサマ・ビンラディンがテレビでアメリカを脅迫したにも関わらず、米国領土内の「眠った組織網」によるテロ行為は全く報告されない。一体何が危険なのかと人々は疑い始めるだろう。では、次に何が起こったか?

10月12日、通信社は警戒すべき情報を流した。記者と国会議員が炭疽菌芽胞の毒入り書簡を受け取ったという。合計5通の手紙がNational Enquirer、NBC、ニュ-ヨ-ク・ポスト、上院議員のダシュルとレーヒ-の事務所に送られた。5人の犠牲者が出た。アメリカの日常生活が止まる。手紙を開くときは手袋をして鼻にハンカチをあてて行わねばならない。ガスマスクや存命キットが飛ぶように売れる。郵便システム全体が麻痺する。恐怖は同盟国にも伝染する。欧州各地で致命的な白い粉の入った封筒が見つかる。アルカイダはサダム・フセインの技術支援で得た化学・生物兵器を使って攻撃に出ることに決めたようだ。アメリカと同盟国は炭疽菌芽胞に対するワクチンのストックを作ることを決定する。製薬工業を起動させ何百万もの接種用ワクチンを注文する。その後、何も起きない。5通の手紙以外は子供の悪戯と集団的錯覚だった。

ところが、この5通の手紙の炭疽菌芽胞は軍事的形態を持ち、それはアメリカの軍の研究所で生産されていた。危険は国内に存在したのだ。アメリカ科学者連盟のバ-バラ・ハッチ・ロ-ゼンバ-グは株を利用し操作できたのは直ちに特定可能な50人ほどの研究者だけであると述べた(Is the FBI Dragging Its Feet ? Barbara Hatch Rosenberg, Federation of American Scientists 2002年2月5日)。クアンティコの軍事基地に9月末(炭疽菌芽胞攻撃がメディアに知らされる前)に送られた匿名の手紙は、USAMRIIDの元研究者アサド医師の不正行為を告発している。FBIは再び大げさな身振りをして、全く捜査をしない。

パニックが去り、短期の作戦「不変の自由」が終る。一般大衆は過去を忘れることができると思う。国防省は人々に危険を思い出させる任務を持つ。ショック映像の加勢を得て「特別に危険なテロリスト達」がキュ-バのグアンタナモ基地に投獄される。麻薬中毒状態にされ、シ-トに固定された後、彼らは飛行機でアフガニスタンから送られる。感覚を奪うプログラムにかけられ、目にはマスク、耳にはヘルメット、鼻にも栓をしている。国防省の法律家達は眉一つ動かさず、拷問を禁止できるのは連邦法だけであり、連邦法は米国領土外のグアンタナモには適用できないと述べる(Trying Terrorists as War Criminels, Jennifer Elsea, Congressonal Research Service, The Library of Congress 2011年10月29日。グアンタナモ基地は99年契約でキュ-バからアメリカに委譲された。期限が来た時カストロは契約を延長しなかった。アメリカはグアンタナモから撤退せず不法に占領し続けている。国際法ではキュ-バの法律が基地に適用されるが、 基地ではキュ-ダ政府は権威を行使できない)。憲法はこの点について全く触れていない。アルジェリアで拷問を行ったことを自認しアメリカで不健康な教えを振りまいたフランスの将軍ポール・オサレスは、テレビに出演し、もったいぶって拷問の有用性を説く。国際社会は心を動かす。国連人権高等弁務官で元アイルランド共和国大統領メアリー・ロビンソンは公的に憤慨しアメリカを叱責する。捕虜達はジュネ-ブ条約の定める戦争捕虜の地位を享受する。人道性を持って扱うべきだ、彼らの訴訟は公正かつ平等に行われるべきだ、と。

世論が震え興奮している間、対テロ戦争は秘密裏に始まっている。テロリズムは国家でも組織でも教義でもなく、一つの活動様式である。政府がテロを用いることもあれば(1793年のロベスピエ-ルの専制はLa Terreurと呼ばれた)少数派反対勢力が用いることもありうる。テロリズムは完全に正当化される場合もある。第二次世界大戦中、フランスのレジスタンスは占領軍と民間・軍の協力者に対してテロ行為を行った。「対テロ戦争」とは「戦争への戦争」という意味しか持たない。

ジョ-ジ・W・ブッシュがテロリズムに非常に限られた定義を与えたのは確かだ。彼はニカラグアの死の中隊の活動をテロリズムとはみなさない。彼らの元保護者ジョン・ネグロポンテをアメリカの国連大使に任命するほどだから。彼にとってテロリズムとはソ連崩壊後の一極支配世界においてアメリカの主導権に反する全ての形式と定義されるようだ。

ウォ-タ-ゲ-ト暴露記者の1人ボブ・ウッドワ-ドはワシントンポストで、会議の複数の参加者の打ち明け話と会議の資料をもとにブッシュ政権の閣僚会議の1つを明確に描写する。その会合でCIAは「テロに対する秘密戦争」を行うための無制限の権利を獲得したという(Saturday, September 15 At Camp David, Advise and Dissent, Bob Woodward and Dan Balz ワシントンポスト2002年1月31日)。2001年9月15日、キャンプデ-ビッドにおける政府会議の時だった。

会議はジョ-ジ・W・ブッシュの祈りから始まった。各々が祈りに参加することが求められた。ついで、財務長官と国務長官が各々の活動を発表した。ジョージ・テネット(CIA長官)が資料をもとに二つの計画を紹介した。彼は注意深い提示の仕方を取った。

最初の計画の題は「最初の攻撃 アルカイダ破壊、聖域(アフガニスタン)閉鎖」である。テネットはアフガニスタンだけでなく世界各地での非民主国家の情報局の協力をも得てアルカイダに対する秘密活動を行う必要性を述べる。全員の同意を得て、彼はこの目的実現のために不可欠な権利を要求した。「テネットはCIAが個々の作戦への正式の認可を求めることなく秘密作戦を行うために十分な権利をこの機関に与える大統領令を望んでいた。テネットはCIAに殺人を含めた秘密作戦の道具を全て利用できる権利を与える大統領令案を持参していた。第二の提案は、CIAが外国の秘密情報局と関係を強化することだった。テネットはCIAへの援助金として数億ドルの予算を期待していた。このような部局を下請けとして用いることでCIAの効果は三倍にも四倍にもなるだろうと述べた。秘密作戦に関して世界でよくあることだがこの種のアレンジには危険がつきものだ。アメリカは人権に関して恐ろしい行為を行うような疑わしい情報局と関係を持つことにもなりうる。これらの情報局の中には暴力的で有名な機関、自白させるため拷問を用いる機関も存在すると。」

テネットはアフガニスタンでの戦略を発表し、会議の緊張感がほぐれた。その後、彼は第二の資料を発表した。資料の題は「世界的攻撃の母体」だった。「彼は現行の、あるいは彼が勧める80カ国での作戦を描写した。おきまりのプロパガンダから軍事攻撃による殺人にいたるまでの作戦だ。」ラムズフェルドはCIAとペンタゴンの間のライバル関係を超えて熱心にこれに賛成した。「CIA長官が発表を終えるとブッシュは情熱的に「すばらしい仕事だ」と叫び、自己の意見に疑いを与えなかった。」

この秘密戦争が始まった。CIAは世界中でジョ-ジ・W・ブッシュの政策の反対者を秘密攻撃した。記者ウェイン・マドスンは4人の有名な犠牲者を特定した(J’Accuse—Bush’s Death Squads, Wayne Madsen MakingNews.Com 2002年1月31日)。

2001年11月11日、西パプア州の指導者テイス・エルアイがインドネシア軍の特別部隊KOPASSUSに誘拐された。東ティモ-ルの虐殺に関わったこの部隊はアメリカのステイ・ビハインドに養成され、CIAに監督された。テイス・エルアイは自国の独立のために闘いフリ-ポ-ト・マクモランによる国物資源の略奪に反対していた。フリ-ポ-ト・マクモランはルイジアナの企業でヘンリ-・キッシンジャ-博士その人が名誉会長を務める。

2001年12月23日、ナイジェリアの法務大臣ボラ・イゲが不特定の突撃隊により自宅の部屋で暗殺された。彼は「ヨルバ人による民主主義同盟」を代表し大統領選に出馬して敗退した。彼はシェブロン(コンドリ-ザ・ライスが社長を務めた)とエクソンモ-ビルに与えられた特権に反対していた。

2002年1月、アチェ州知事がアチェ解放運動の指導者アブダラ・シアフィに和平交渉を提案する手紙を送った。シアフィは独立を求めるだけでなく、エクソンモービルの採掘に反対する。非暴力を主張し(シアフィはオランダのUNPOのメンバ-だった)シアフィはマキに隠れる。手紙にはチップが付加されており、米国国家安全保障局(NSA)の衛星で彼の居場所が突き止められた。彼は1月22日にKOPASSUSの突撃部隊によって暗殺された。

極右指導者でレバノンのキリスト教徒義勇兵のリーダ-、エリー・ホベイカとその護衛達が1月24日に自動車爆弾テロにより死亡した。ホベイカは1982年のサブラとシャチラの虐殺の主要な犯人だが、イスラエルに反抗し、人道に対する罪で起訴されたアリエル・シャロンのベルギ-人道裁判で被告に不利な証言をするはずだった。この作戦はCIAとモサドによって企てられたという(Elie Hobeïka, le choc d’un assassinat, Détails exclusifs sur l’attentat, L’Hebdo Magazine 2002年2月22日)。

これが「テロ防止対策」と呼べるだろうか?

2月13日、ワシントン・ポストはヘンリ-・キッシンジャ-博士の長い論文を発表した(Phase II and Iraq, Henry Kissinger ワシントンポスト2002年2月13日)。アメリカの対外政策の着想者であるこの人物は首都で行われている議論について語る。アフガニスタンでの勝利の後、三つの選択肢が可能であると。第一の選択肢は、これで仕事は終了しタリバンを模倣しようとした人々は教訓を得ただろうと考えること。第二の選択肢はソマリアやイエメンのようにテロリストに好意的な国々に圧力をかけること。第三の選択肢はアメリカの意志が続くことを示し中東における力関係を変えるためイラクのサダム・フセイン打倒に集中すること。

そしてヘンリ-・キッシンジャ-は軍事力展開と反対派支援を組み合わせたイラクへの決定的攻撃を擁護する。

テスト飛行が良好とわかり、ブッシュ政権はこの計画に乗り出す。

1月29日、アメリカ大統領は議会を前に伝統的な一般教書演説を行う。今回はアフガン暫定政府の首相ハミド・カルザイが出席している。ブッシュ大統領は対テロ戦争の新たな目的を告げる。

「アメリカは休みなく辛抱強く、二つの大きな目的を追求します。第一に私達は訓練キャンプを閉鎖し、テロリストの計画の裏をかき、テロリストを裁判に出頭させねばなりません。第二に私達はテロリストと化学兵器、生物兵器、核兵器を得ようとする政府がアメリカと世界を危険にさらさないようにしなければなりません。

私達の軍はアフガニスタンのテロリストの訓練キャンプを制圧しました。しかし、世界の10カ国ほどの国においてテロリストは相変わらず存在します。ハマス、ヒズボラ、イスラム主義ジハ-ド、ジャイシュ=エ=ムハンマドなどからなる秘密のテロ世界がジャングルや砂漠で活動し、大都市の中心に潜んでいます。(……)

私達の第二の目的は、テロリズムを支援する政府が大量破壊兵器を用いてアメリカとその友好国を脅かさないようにすることです。

9月11日以降静かにしている政府もありますが、私達は彼らの真の性格を知っています。北朝鮮政府は国民を飢えさせながらミサイルや大量破壊兵器を備えます。イランは選挙で選ばれていない少数派が国民の自由への希望を押し殺す一方でそのような兵器の製造に活発に取り組み、テロリストを送り出しています。イラクはアメリカに対する敵意を表し、テロリズムを支援し続けています。イラク政府は10年以上前から炭疽菌を完成させようと企んでいます。この政府はすでに窒息ガスを使って大量の自国民を殺害し、母子を共に死亡させました。この政府は国際監視団を受け入れた後、監視団を追放しました。この政府は文明世界に対して何かを隠しています。これらの国家はその同盟者のテロリスト達と共に悪魔的な枢軸を形成し、武装して世界平和を脅かしています。」

アメリカの同盟国にとって、圧力はあまりに強い。5ヶ月前から黙って侮辱を耐え忍ばねばならなかった。9.11テロに続く服喪の間は、アメリカの逸脱に対するどんなに慎ましい批判も不可能だった。しかも、アメリカは服喪を同盟国にまで拡大するという配慮を行い、あらゆる記念儀式やテレビショ-でそれを延長したのだ。

しかし、2月6日、フランス外相ユベ-ル・ヴェドリンが一歩を踏み出した(Entretien d’Hubert Vedrine avec France-Inter-Question directe 2002年2月6日)。彼は首相と共和国大統領の承認を得て行動した。France-Interの番組で彼はこう述べる。

「私達はアメリカの連盟国でアメリカ国民の友です。私達は9月11日の悲劇、このテロ攻撃に直面し、彼らに深く連帯しました。アメリカ国民との連帯からだけではなく、それが論理であるため、この病を根本から治療する必要があります。そして今日、私達は新たな単純主義の危険にさらされています。世界の全ての問題をテロに対する戦いだけに結びつけるという単純主義です。これは真面目ではありません。

(……)たとえテロ防止が不可欠だとしても、全ての問題をテロ防止に結びつけること、軍事的手段だけでこれを行うことはできません。その根本を治療する必要があります。貧困、不正、侮辱などの状況を改善する必要があります。

(……)ヨーロッパはヨ-ロッパ自身であるべきです。私達がアメリカの政策に賛成ではない場合、それを言うべきです。私達はそれを言うことができます。それを言わねばなりません。(……)アメリカ国民の友好国、NATOにおける連盟国であるということは、アメリカと同一線上にあるということではありません。いかなる問題についても自己の思想を切り捨てたという意味ではありません。

(……)私達はアメリカと対話をしましょう。友情をもってそれを行いましょう。アメリカに対し自国から出ないよう要請もしません。その逆に、アメリカが世界の問題に取り組むことを望みます。全ての真面目な問題はアメリカなしに解決できないからです。アメリカには取り組んで欲しい。しかし多国間主義、協力主義に基づいて私達と話し合いながら取り組んで欲しいです。私達の声が聞こえるよう、声を高める必要があればそうします。」

ワシントンではコリン・パウエルがフランス外相の発言を傲慢に受け取り、「パリの知識人がのぼせている」と嘲笑した。

2日後、仏首相リオネル・ジョスパンが、欧州国会議長会議を利用して世界の聴衆を前に釘を刺した。

「9月11日のテロの直後、私達はアメリカとの完全な連帯を表明し、協力してこの攻撃への報復に貢献しました。テロに対する共同活動は決意を持って続けられるでしょう。しかし、だからといって私達が9.11の事件から引き出すべき教訓を明晰に熟考しなかったわけではありません。世界の問題をテロ防止の次元にのみ還元することはできません—-テロ防止が不可欠だとしても。また、この解決のため武力だけに頼ることはできません。私達の世界観は、より平等な国際社会、より安全で公正な世界の構築を目指します。この概念は多国間協力に基づきます。あらゆる形の協力を行い、国際社会のメンバ-が共に問題を解決できるようにします。いかなる国も単独で問題を解決できると主張することはできないからです。(……)私達はアメリカが単独主義で行動する誘惑に負けず、私達と共にこの手段を選ぶことを望みます。彼らなしには私達が求める新たな均衡に到達することは困難だからです。私達はこの概念を押し進めるための取り組みを続けるつもりです。」

ヨ-ロッパは懐疑的になる。翌日、今度はクリス・パッテン(欧州議会外交専門部会委員)が沈黙を破った。ザ・ガーディアン紙の対談でパッテンはフランス側の「絶対主義・単純主義」批判を展開し、アメリカは同盟国の意見を聞くべきだという主旨の甘くかつ厳しい指摘を行った。「ガリバ-は独断で行動できません。また私達が自分達を声をあげる勇気もないリリパット人とみなすのもよくありません。」(Breaking the Silence, The Gardian 2002年2月9日 )2月10日、スペインのクエンカに集まった欧州外相会議にもこの態度は感染した。皆が予期せぬこのヴェドリン・パッテン合同路線に同意した。

ベルリンのNATO会議では大西洋同盟にも反逆の波が広がった。カナダ首相ジャン・クレティエンは国連とNATOの決議はアフガニスタンにのみ適用されると指摘し、アメリカが一方的に別の紛争を始めることが理解できないと述べた(Chretien Resists American Pressure on Iraq, Sandra Cordon, The Halifax Heraald 2002年2月18日 )。

正念場に近づいているのだろうか?

第十一章 陰謀

私達が所有する要素から考えると、9月11日のテロはアメリカ国家機関内部の人間の犯罪である。しかし、この結論に私達は反発する。私達はビン・ラディン陰謀伝説に慣れており、また、アメリカ人が臆面もなく3000人の同国人を犠牲にしたということを想像し難いからだ。ところが、アメリカ統合参謀本部は過去にも自国民に対するテロを計画したことがある(実行はしなかった)。歴史を振り返ってみよう。

1958年、キュ-バで、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ、チェ・ゲバラ、カミロ・シエンフエゴスに率いられた叛徒がフルヘンシオ・バティスタの傀儡政権を倒す。新政府(まだ共産主義国ではない)が、アメリカの多国籍企業(スタンダ-ド・オイル、ジェネラル・モ-タ-ズ、ITT、ジェネラル・エレクトリック、シェラトン、ヒルトン、ユナイテッド ・フル-ツ、Est Indian Co)とバカルディ家が6年前から行っていた搾取を終らせた。これらの企業はその報復としてアイゼンハワ-大統領にカストロ派を倒すよう説得した。

1960年3月17日、アイゼンハワ-大統領は「カストロ政権に対する秘密活動計画」を認可した。キュ-バに限られてはいるが、この計画はジョ-ジ・テネットの「母体」と似ている。その目的は「アメリカの介入が目に見えないような手段でカストロ政権を別の政権に--キュ-バ人の真の利益に一層忠実でアメリカが容認しうる政権に—-取り代えること」である(A Program of Covert Operations Against the Castro Regime CIAは1961年4月16日この資料を秘密情報リストからはずした)。

1961年4月17日、CIAに統括されたキュ-バ人亡命者と傭兵の部隊がピッグス湾に上陸しようとした。この作戦は失敗に終る。大統領になったばかりのジョン・F・ケネディは傭兵を援護するための空軍派遣を拒否する。1500人がキュ-バ当局の捕虜になる。ケネディはこの作戦を否認しCIA長官(アレン・ダレス)、副長官(チャ-ルズ・キャベル)、ステイ・ビハインド長官(リチャ-ド・ビッセル)を罷免する。ケネディは軍の補佐官マクスウェル・テイラ-に国内の調査を委任するが具体的な措置は取られない。ケネディは作戦が失敗すると知りながら認証した統合参謀本部議長の態度に疑問を抱く(The Chairmen of the Joint Chiefs of Staff, Willard J. Webb and Ronald H. Cole, DoD, 1989. Swords and Plowshares, MaxwellD. Taylor, 1972)。

将軍達はアメリカをキュ-バに対する戦争に巻き込むためにこれを企てたように思われる。

ケネディ大統領はCIAの方法の失敗を罰したが、ハバナの政府に対する米政府の敵対政策を問題視することはしなかった。彼は反カストロ戦争を考案し実行する任務を持つ「特別拡大グル-プ」を作った。このグル-プは弟のロバ-ト・ケネディ(司法長官)、軍補佐官(マクスウェル・テイラ-将軍)、国家安全保障補佐官(マクジョ-ジ・バンディ)、国務長官(ディ-ン・ラスク)、国務次官代理(アレクシス・ジョンソン)、国防長官(ロバ-ト・マクナマラ)、国防副長官(ロスウェル・ギルパトリック)、CIA新長官(ジョン・マコ-ン)、そして統合参謀本部議長(ライマン・L・レムニッツァ-将軍)から構成される。

この「特別拡大グル-プ」は「マング-ス作戦」という名の一連の秘密作戦を考案した。これを実現するため、国務省、国防省、CIAの間の調整がエドワ-ド・ランスデイル将軍(国防長官特別作戦担当補佐官、NSA長官)に任せられた。一方、CIA内部ではウイリアム・ハ-ヴェイ率いる特別部隊「グル-プW」が作られる。

1961年4月、米軍は重大な危機にあった。ドイツ駐在歩兵隊の指揮を取る前にリトルロックで人種差別紛争を引き起こしたエドウィン・A・ウォ-カ-がケネディ大統領に罷免された(Edwin A. Walker and the Right Wing in Dallas, Chris Cravens, South Texas University 1993)。ウォ-カ-は軍内部で極右勧誘運動を行ったという非難を受けた。ジョン・バ-チ・ソサエティやキュ-・クラックス・クランにも属しているという。

上院の外交委員会が軍の極右に関する調査を担当する。上院議員アルバ-ト・ゴア(テネシ-州選出・民主党。副大統領になったアル・ゴアの父)が公聴会の議長を務めた。上院議員達はウォ-カ-の陰謀に統合参謀本部議長ライマン・レムニッツァ-将軍が関わっているのではないかと疑う。ゴアはレムニッツァ-が秘密活動の専門家であることを知っている。1943年、レムニッツァ-はイタリアをドイツ帝国に敵対させるための交渉を個人的に行う。1944年にはアレン・ダレスと共にスイスのアスコナでナチスと秘密交渉を行い、降伏を準備した(サンライズ作戦)。またナチスのスパイを対ソ連紛争に利用したステイ・ビハインド組織の形成と、人道に対する罪の犯人をラテンアメリカに逃がす策略に関与した。しかしゴアは当時の事件では彼の責任を証明することができなかった。

レムニッツァ-将軍の秘密書簡が最近公開され、彼が欧州の米軍指揮官(ラウリス・ノ-スタッド将軍)や他の高位将校達と共にジョン・F・ケネディの政策への破壊行為を企てていたことが示された。

極右の軍人達はケネディのキュ-バ軍事介入拒否を批判する。ピッグス湾上陸の悪い計画の責任がCIAの民間の職員にあると考え、米空軍の支援を拒否したケネディを卑怯者だとみなした。状況を打開するため、彼らはケネディに軍事介入の口実を提供しようと考える。ノ-スウッズ作戦と呼ばれるこの計画のために深い検討が行われた。ウイリアム・H・クレイグ将軍がこれを形式化した。1962年3月13日、レムニッツァ-自身がこの計画を特別拡大グル-プに発表した。会合はペンタゴンの国防長官執務室で午後2時30分から午後5時30分まで行われ、非常に悪い結果に終った。ロバ-ト・マクナマラは計画全体を拒否し、レムニッツァ-は威嚇的態度に出た。その後6ヶ月間、ケネディ政権と統合参謀本部議長の間の敵対関係が続き、最終的にレムニッツァ-は遠ざけられた。彼は欧州米軍のトップに任命された。出発前に彼はノ-スウッズ作戦の痕跡を全て破壊するよう命じたが、ロバ-ト・マクナマラは手渡されたメモの複製を保存した。

ノ-スウッズ作戦はフィデル・カストロが西側諸国の平和を脅かしていることを国際社会に説得する目的を持つ。そのため、アメリカの重大な損害を計画しキュ-バにその責任をなすりつけるという計画である。彼らが計画した挑発行為のいくつかをここに記す。

グアンタナモの米軍基地を攻撃する。フィデル・カストロ軍の制服を着たキュ-バ人傭兵が作戦を実行する。様々な破壊行為、弾薬庫の爆破が含まれる。これにより必然的に物質的・人的損失が多大となる。

キュ-バ領海でアメリカの軍艦を爆破する。アメリカのスペイン介入の原因になった1898年のメイン号破壊を思い出させる(死者266人)。(当時キュ-バはスペイン植民地だった。アメリカはキュ-バの非植民地化と保護領化強制のため軍事介入した)。アメリカ軍艦に人は乗っておらず、遠隔操作される。目撃者を得るためにハバナやサンチアゴからも爆発が見えるようにする。損失を信じさせるため、救助活動を行わせる。怒りを引き起こすため、犠牲者のリストをメディアに公表し、偽の葬儀を行う。キュ-バの母艦がこの地帯にいる時に作戦が実行される。こうして彼らに責任を負わせることができる。

フロリダのマイアミやワシントンでキュ-バ亡命者に対するプラスチック爆弾テロを行い恐怖を与える。偽のキュ-バ人スパイが逮捕され自供する。彼らの有罪を示す、前もって作られた偽の資料がメディアに配られる。

キュ-バの隣国にキュ-バからの侵略の危険を信じさせ動員する。偽のキュ-バの飛行機がドミニカ共和国などの近隣諸国に夜間空爆を行う。使用する爆弾は当然ながらソ連製を用いる。

有人飛行機を破壊し世界の世論を動員する。人々の心に衝撃を与えるため、犠牲者はジョン・グレン(マーキュリ-計画で地球一周に成功した最初のアメリカ人)とする。

1つの挑発行為がとりわけ深く検討された。

「キュ-バの航空機がアメリカからジャマイカ、グアテマラ、パナマあるいはベネズエラへ向かう民間のチャ-タ-機を攻撃し撃墜させたように見せかける方法を作りあげることが可能だ。」共犯者達(学生など)はCIA配下の航空会社のチャ-タ-便に乗る。フロリダの沖でこの飛行機はその複製とすれ違う。複製は一見同じだが無人飛行機に変えられている。共犯の乗員達はCIAの基地に戻り、無人機の方は飛び続けるようにふるまう。飛行機はキュ-バ戦闘機に攻撃されたというSOSメッセ-ジを送り、飛行中に爆発する。

(領空監視は厳しく、飛行機をすり替えて航空管制官が気づかないということは困難に見える。しかしそれは不可能ではない。個々の旅客機はトランスポンダを備え飛行機を識別させ高度や速度などのデ-タを示すシグナルを発する。しかし領空の正確な把握は国防機密であり民間のレ-ダ-ではトランスポンダが軍の暗号を発する場合、その飛行機を感知できない。飛行機をすりかえるためには軍の暗号を保有しすりかえの間民間のトランスポンダを切ることが必要だ。9.11テロの際、ハイジャックされたと公式に見なされる4機の飛行機のトランスポンダは信号発信を停止していた。現行の手続きでは、管制官はただちにラジオ通信で飛行機が困難に陥っていないかを確かめる、さもなければNORADが戦闘機で視覚的に接触できるよう軍当局に知らせる義務がある。)

これらの作戦の実行は必然的に民間人・軍人の多くのアメリカ市民を死亡させる。しかし、彼らの操作活動を効果的にするのはこの人的犠牲なのである。

ジョン・F・ケネディはレムニッツァ-を良心のとがめを知らぬ多国籍企業に支配されたヒステリックな反共主義者だとみなす。新大統領は前任者アイゼンハワ-大統領の警告の意味を理解する。アイゼンハワ-は1年前、退陣演説でこの警告を発していた。

「政府の委員会において、それが意図されたものであろうとなかろうと、軍産複合体が不当な影響力を得ないよう注意すべきです。権力が強奪された場合、その権力が悲惨な形で拡大する危険は存在し、また存続するでしょう。私達はこの連携勢力の影響力が私達の自由と民主主義のプロセスを脅すようにしては決してなりません。いかなるものも既成事実と見なしてはいけません。市民の警戒と意識だけが巨大な国防軍産機械の影響力と私達の平和的手段目的の間の均衡を保つことを保証し、それにより安全と自由が共に増すことになるでしょう。」

ジョン・F・ケネディは最終的にウォ-カ-将軍、レムニッツァ-将軍そして彼らの仲間に抵抗し、アメリカを共産主義への過度の戦争(キューバ、ラオス、ヴェトナム)に巻き込むことを拒否する。彼は1963年11月22日に暗殺される。

レムニッツァ-将軍は1969年に引退する。しかし1975年m乗員がニクソン政府におけるCIAの正確な役割を調査し始めた時、ウォ-タ-ゲ-ト・スキャンダル以来大統領を代行していたジェラルド・フォ-ドがレムニッツァ-に調査に加わるよう要請した。レムニッツァ-が論争を無に帰す助けをすると、フォードは再び彼に「現在の危険に関する評議会」(Committee on the Present Danger)という圧力グル-プの指揮を任せた。この協会はジョ-ジ・ブッシュ父が率いるCIAによって作られ、ソ連の危険に対するキャンペ-ン活動を行っていた。幹部にはCIAの様々な責任者達とポ-ル・D・ウォルフォウィッツ(現在国防次官、アフガニスタン作戦担当)が見られた。ジェラルド・フォ-ドは平行してノ-スウッズ作戦の予備研究を指揮したウイリアム・H・クレイグ将軍を昇格させNSA長官に任命した。

レイマン・L・レムニッツァ-は1988年11月12日に死去する。

1992年、公式説の矛盾を示すオリヴァ-・スト-ンの映画が封切られると、アメリカの世論はケネディ大統領の暗殺について疑問を持つ。クリンントン大統領はケネディ時代の多くの資料を秘密情報リストからはずした。国防長官ロバ-ト・マクナマラの書類の中にノ-スウッズ計画の保存された唯一のコピ-が見出された。

この過去の例を見れば、不幸なことだが、テロ戦争の枠組みで米国民を犠牲にすることを予定する米国内部陰謀はありえないことではないと分かる。1962年にジョン・F・ケネディは自己の参謀本部の狂気に抵抗した。彼は自分の命でその代価を払ったのかもしれない。同じ状況に直面した場合、ジョージ・W・ブッシュはどのような反応をしたか、私達は知らない。

アメリカの最近の歴史を見れば、国内のテロは増え続けていることがわかる。1996年以来FBIは毎年国内のテロに関する報告を行っている。1995年に4件、1996年には8件、1997年には25件、1998年には17件、1999年には19件起きた。その大多数が軍や準軍事組織の極右グループによる犯行だ。

アメリカ軍内部に9月11日のテロの陰謀が存在したことは、カナダのトロントの最高裁判所においてデルマ-ト・エドワ-ド・ヴリ-ランド中尉の証言で示された(Toronto Star におけるNick Pronの記事Did This Man Predict Sept.11 ? (10月23日)、US Looks into Inmate’s Story. Jail Man Said He Tried to Warn About Attacks(10月25日)、Plot to Murder Judge May Never Have Existed(10月31日)、Was Embassy Worker Poisoned?(2002年1月21日) )。

銀行カ-ド詐欺事件で逮捕されたヴリ-ランド中尉は、自分がアメリカの海兵隊の情報部(Naval Intelligence)に属すると報告した。彼は警察に対し、ロシアでマーク・バスティアンの暗殺に関する情報を集めたことと、ニュ-ヨ-クのテロの準備について語った。モスクワのカナダ大使館の職員マ-ク・バスティアンは暗殺されたのではなく酩酊状態で抗うつ剤を飲みすぎたためだと知った警察は、ヴリ-ランドの発言を自己弁護であるとして退けた。ヴリ-ランドは拘禁された。

2001年8月12日、ヴリ-ランドは来るべきテロに関する証言を含む封書を刑務所当局に提出した。カナダ当局はこれを全く重要視しなかった。9月14日、封筒を開けた当局は3日前のニュ-ヨ-クのテロの正確な描写をそこに見出し、ペンタゴンに問い合わせた。「デルマ-ト・“マイク”・ヴリ-ランドは能力不足のため1986年に海軍を去った。彼が海軍情報局で働いたことは一度もない」という返事が返ってきた。連邦検事はヴリ-ランドの言葉を退け、トロント最高法廷で叫んだ。「そのような話がありうるでしょうか?不可能だとは言わないが、もっともらしい話ではない!」

しかし、展開が見られた。法医学者のリン・デュシェヌがマーク・バスティアンの死因を暗殺と結論した。ヴリ-ランドの言葉は信頼性を取り戻す。再び展開が見られる。2002年1月25日、トロントの最高裁での公聴会で、ヴリ-ランドの弁護士ロッコ・ガラティとポール・ドランスキ-がペンタゴンの電話交換手と電話で会話をした。受話器にはメガホンがつけられた。会話を聞く裁判官達の前で、彼らは自分の客が現在海軍に勤めているという確認を取った。さらに、彼の上官に話がしたいと頼むと交換手は海軍情報局の直通へ回した。

というわけで、このテロは5カ国の情報局(ドイツ、エジプト、フランス、イスラエル、ロシア)およびヴリ-ランドのような海軍情報局のスパイや、オディゴに警告を送った匿名の人々によって前もって知られていた。証券市場で投機を行う内部者は言うまでもない。一体、どれほど多くの人々に計画は漏洩していたのだろうか?どれほど多くの人々が計画に関与していたのだろうか?

ランド・コ-ポレ-ションの副会長ブル-ス・ホフマンは下院の公聴会で、テロはその規模の大きさから「想像できない」ものだったと述べた。最も評判の高い専門家の意見だ。議論の余地を与えない。

年間予算1億6千万ドルのランド・コ-ポレ-ションは軍事戦略・組織の分野における世界最大の民間研究所だ。アメリカの軍産ロビ-の威信ある姿である。ジェ-ムス・トンプソンに率いられるこの研究所の幹部にはアン・マクローリン・コロロゴス(アスペン研究所の元所長)やフランク・カ-ルッチ(カーライル・グル-プ会長)が含まれる。コンドリ-ザ・ライスやドナルド・ラムズフェルドも公職が許す限り幹部を務めた。ザルメイ・ハリルザドはここで分析者を務めた。

ところで、ブル-ス・ホフマンは嘘をついている。2001年3月(テロの6ヶ月前)アメリカ空軍アカデミ-での会議で彼はまさにその「想像できない」シナリオを予想していた(Twenty-First Century Terrorism, in The Terrorism Threat and US Governement response : Operational and Organizational Factors, US Air Force Academy, Institute for National Security Studies, March 2001)。アメリカ空軍の高位将校達を前に彼は以下の発言をした。「私達は私達の軍隊をビンラディンと関係のある組織あるいは運動であるアルカイダに対して準備します。」「1993年のWTC爆弾テロのことを考えて下さい。現在、北タワ-と南タワ-を倒して6万人を殺すことが可能であることを理解して下さい。」「彼らは標的に達するため他の武器、他の戦略、他の手段を見出すでしょう。彼らには多くの選択肢があります。その中にはドロ-ン(遠隔操作の飛行機)も含まれます。」

素晴らしい予知能力ではないか?

共和党の好戦家達を静めるため、2000年予算案採決の際、民主党員は宇宙に関する国家安全保障宇宙管理組織評価委員会の設立を認可した。委員会は2001年1月11日に報告書を提出した(Report of the Comission to Assess U.S. National Security Space Management and Organization)。その数日後、委員会の長であるドナルド・ラムズフェルド閣下はブッシュ政権の国防長官になり、ランド・コ-ポレ-ションの理事会の椅子を離れた。委員会の12人のメンバ-のうち、8人が退役将軍だった。全員がミサイル防衛の支持者だった。32日間の委員会の働きは状況の監査ではなく、すでにメンバ-の共通の確信であるものを正当化する論拠を探すことに費やされた。

この「ラムズフェルド委員会」にとって、宇宙は陸・空・海に比較できる軍事領域である。陸軍、空軍、海軍に並ぶ固有の軍隊を宇宙も持つべきだと考える。アメリカはこの領域を占領し他の大国が入るのを防ぐべきた。手段の不均整により、アメリカの軍事的覇権は異論の余地のない無限なものになろう。

ラムズフェルド委員会は10の提案を引き出した。1、宇宙軍は直接大統領に従属する。2、アメリカ合衆国がその利益をよりよく利用できるよう大統領は宇宙担当補佐官をもつべきである。3、安保理内で様々な国の情報局が宇宙軍に提携し従属するべきだ。4、宇宙軍は情報の道具であると同時に致死的武器であり、その利用には国防長官と多くの情報局の連携が必要となる。情報局はCIA長官だけの管轄化に置かれる。5、国防長官に宇宙担当補佐官をつけるべきである。6、宇宙の指揮権は空の指揮権とは区別されるべきだ。7、宇宙軍は他の軍の部局を使用できねばならない。8、宇宙衛星画像局(NRO)は空軍の副長官に従属するべきだ。9、国防長官は宇宙研究開発への投資を監督し米軍と他の軍事大国の軍隊との不均整を増加させるよう努めるべきだ。10、宇宙軍事計画のために非常に多額の予算が支出されるべきだ。

1972年のABM条約の批判に加え、宇宙の軍事化というこの野心的な計画はアメリカの組織・戦略の大きな改革を必要とするため実現不可能に思われる。その理由で、ラムズフェルド委員会はこう書いている。

「歴史上には、警告を無視し変化に抵抗し続けた結果、「ありえない」と思われていた外部からの出来事が政府の役人を強制的に動かした状況がいくつもある。問題はアメリカが責任を持って行動しできるだけ早く宇宙での弱さを減少させる知恵を持つかどうかである。さもなければ過去にそうであったように、国民のエネルギ-を鼓舞しアメリカの政府の行動を強制することができる唯一の出来事は国と国民への破壊的攻撃に違いない。1つの“宇宙のパ-ルハ-バ-”が起きることだろう。私達は警告を受けたが、私達は警戒態勢にはない。」

ロナルド・ラムズフェルドと空軍の将軍達にとって9月11日の出来事はいわば“神のたまもの”(敗北したおかげで共和国を倒してフィリップ・ペタンに全権を与えることができた時にフランスのファシストが用いた表現)である。

9月11日、午後6時42分。ドナルド・ラムズフェルドはペンタゴンで記者会見を開いた。この困難な時にアメリカの統合を表明するため、国防省上院委員会の民主党・共和党の指導者達は彼のもとに集まった。ブッシュ大統領の消息がなく、世界中がアメリカの対応を不安に待っていた。ところが、記者会見の最中に、世界の通信局の生中継のカメラの前でドナルド・ラムズフェルドはミシガン州選出・民主党員のカール・ルヴィン上院議員に非難の言葉を述べた。「あなたも、議会の他の民主党代表者も、ペンタゴンが求める国防予算、特にミサイル防衛予算の大幅な増加のための資金がないと不安を示しました。あなたがたは、この努力のために社会保健基金に手をつけねばならないと言って心配しています。いま起きたばかりのこのような事件は、国防予算を緊急に増加させるべきだ、必要とあれば社会保健基金をも利用して軍事支出にあてるべきだということをあなたがたに納得させるのに十分ですか?軍事支出の増加にです。」

この激昂を自白と解釈することができるかもしれない。

エピローグ

エネルギ-業界ロビ-がアフガニスタン戦争の主要な受益者だとすれば、軍産ロビ-は9.11テロの大勝利者である。今後は彼らの最も常軌を逸した希望もかなえられることになる。

まず初めに、軍備開発の制限を定めたABM条約がジョ-ジ・W・ブッシュに一方的に非難された。

さらに、CIA長官が9.11テロの際の明らかな失敗の後も更迭されず、「世界的攻撃の母体」を首尾よく実行するためにCIAの予算は直ちに42%も増加された。

ソ連崩壊後下がり続けていたアメリカの軍事予算は突然極端に増加した。テロ直後の補足予算および予定される予算増加を考慮すると、ブッシュ大統領任期の最初の2年間で軍事支出が24倍も増加することになる。軍備競争が終わり、アメリカにとっての大きな敵はもはや存在しないというのに、5年間で米軍の予算は2兆ドル以上になる。アメリカの軍事予算はアメリカに続いて大きな25カ国の軍隊の予算の総額に相当する。

最も多額の資金を与えられる部署は宇宙と秘密作戦に関する機関だ。このことから、秘密作戦の責任者達(ジョージ・テネットを中心とするグル-プ)と宇宙軍支持者の間の連合がアメリカ国家機関において支配的になったことが分かる。宇宙軍支持者はドナルド・ラムズフェルドとラルフ・E・イバ-ハ-トを中心としたグル-プだ。イバ-ハ-トは現在NORAD総司令官で2001年9月11日に領空監視を指揮した主要な高位将校である。

9月11日の事件によって成されたアメリカ政府の変化はウィンストン・チャ-チルの言葉を借りれば、多くの「血と汗と涙」を予告するようだ。地球上で誰がその犠牲を払うことになるのだろうか。

パリ、2002年2月20日

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